トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』は一般に自然法や国家論について述べられた本だと認知されているが、その実、かなり射程の広い本だ。その理由は、彼もまたデカルトと同様に合理主義哲学者であり、国家とは何かということを考えるための出発点は人間の本性(と聖書)にしか根拠を置かなかったからだ。ゆえにこの本の第一部は『人間について』である。
いうなれば、『リヴァイアサン』は「国家」というものを素因数分解した哲学である。国家という概念を構成する要素を因数分解していき、たしかめ可能な最後の要素まで追い詰めた。そしてスタートラインとなるのは、デカルトの「我思う故に我あり」と同じく、人間の感覚と思考である。ホッブズは人間精神を前提とした論理的な推論から国家の本質を説明した。
したがって、『リヴァイアサン』は国家論の哲学であると同時に、その大部分は人間の本性についての哲学である。その内容もなかなか的を射た、おもわず唸らされる論理展開が多い。国家論に興味がなくとも、『リヴァイアサン』から学べることは今でも多いだろう。
そこで本稿ではトマス・ホッブズの言語論、言語の本質についての記述を『リヴァイアサン』から取り出してみようと思う。対象とするのは、第一部の第一章から第五章である。
第一章 感覚について
この章の主旨は、次の2点にある。
- 思考とは、私たちの外部にある物体(対象)を心に思い浮かべることである
- 思考を生み出す「感覚」とは、対象から受けた刺激により形成された心象である
ここでは、人間がある対象を思い浮かべて思考するとき、その思い浮かべられたものは対象そのものではなく、対象から身体が受けた感覚によって、自らの心のなかで形成された心象であると記述される。
実体としての対象はその内部に、私たちの側に生じる心象をそなえているように見えるが、対象と心象は別物である。したがって、感覚というのはあくまでも、その場で新たに形成される心象だということがわかる。
つまり、これは認識論としては対象そのものと、現象の認識を分けて考えている。そして、心象が「その場で形成される」ものとしているのが興味深い。つまり、一切の認識は信憑・確信であるということに加え、その確信形成の根拠は内的なものであることがはっきりしている。このことが第四章、第五章において重要になる。
第二章 イマジネーションについて
この章の主旨は、次の3点にある。
- イマジネーションとは薄れゆく感覚である
- イマジネーションと記憶は同一である
- 「理解」とは、記号に想起されるイマジネーションである
ホッブズはここで、感覚=心象が対象とは切り離され、一度形成されたあとは対象と別様に有るということを、イマジネーションという概念で説明する。
イマジネーションとは、空間的距離や時間的距離によって次第に薄れていった心象であり、希薄化した心象のことをわれわれは記憶と呼んでいる。
また、薄れてしまったイマジネーションは、なんらかのきっかけで再び想起されることがある。
われわれが何かを「理解」しているというのは、なんらかの記号によって特定の心象を想起するということにほかならない。
第三章 イマジネーションの波及ないし連鎖について
この章の主旨は次の点である。
- 思考の連鎖とは、ひとつの思考が他の思考につながることである
思考は一度始まると、次々に他の思考に連鎖する。これはイマジネーションの連鎖である。
つまり、思考によって思い浮かべられた心象が刺激となって、別のイマジネーションを想起させ、それについて思考するとまた再び別のイマジネーションが想起される。
このような思考の連鎖は、人間が理性を持った動物として生得的に発揮する知力である。そして、人間が持つ知力の中で、努力の必要なく発揮される能力はイマジネーションの働きだけであるという。
人間の知力には感覚、思考、思考の連鎖(=イマジネーションの働き)以外はない。それ以外の人間固有のあらゆる能力は、言語を操る能力と、それによって考えを秩序立てる推論の能力によって高められている。
第四章 話す能力について
いよいよ言語について語られる第四章の主題は次の点である。
- 話すとは、思考の連鎖を名称の配列に変える行為である
- 言語によって、因果関係を記憶しておくことが容易になる
- 二つの名詞を組み合わせると一個の命題ないし断定が得られる
- 学問とは、名称を正しく定義し理解することである
- 理解とは、語句の配置や構成によって表される思考を把握する行為である
第三章で述べられた思考の連鎖は、それが思考である限り記憶したり伝達することは難しい。
だが、人間は言語によって自分の思考を記憶にとどめ、言葉をきっかけに過去の思考を思い起こすことができるし、自分の思考を他人に伝えることができるようになる。
いいかえれば、「話すという行為の一般的な効用は、思考の連なりが言葉の連なりに変わるというところにある」という。
つまり、「話す」とは、思考の連鎖を名称の配列として言語化することである。
特にこの章で面白いのは、名称は勘定に入れられるものに与えられるという考え方である。「勘定に入れられるもの」とは、足せば和が得られ、引けば差が残るもののことである。
ホッブズは、同じ物であっても、偶有性(付随的性質)が異なれば別々に勘定されることがあるという。例えば、ただの「食べ物」ではなく分けて数えたいから「くだもの」という名が与えられ、同様に「リンゴ」という名で分けて数えられる。そして同じ「リンゴ」でも、それを産地ごとに分けて勘定するのならば、「国産リンゴ」や「外国産リンゴ」のような名称が与えられるということだ。
これはつまり、名前というのは人間の都合で「分けたいもの」に応じてついているということであって、物に名前を割り当てているのではなく言葉が世界を分節するという意味で実にソシュール的である。17世紀にしてすでにここにたどりついているのは慧眼というほかない。
そして、第三章でも触れられた「理解」は、言語能力によって人間固有の理解能力としてあらためて説明される。
すなわち、理解とは、語句の配置や構成によって表される思考を把握する行為である。
いいかえれば、「思考の連鎖」を「言葉の連なり」に変換する「話す」とは正反対に、逆に「言葉の連なり」から「思考」を読み取ることが「理解」である。
何らかの話を聞いて、使われている語句の配置や構成によって表される思考が把握できたら、その話を理解したと言える。
つまり、「理解とは、言語がもたらす概念にほかならない」
さらにホッブズは、理解の個人差についても述べている。同じ言葉=記号であっても、人によってどのような意味を理解しているかどうかは違うことを、次のように説明する。
感情を刺激するものを表す名称は、意味が一定しない。なぜなら、刺激が同じであっても人によって受ける作用が異なるし、刺激を受けるのが同一人物であっても毎回同じ作用を受けるとも限らないからである。
また、あらゆる名称は、私たちが思考する概念を表すために付けられるものであって、思考の本源は感覚=心象であった。
同一物に対して異なる概念を抱くならば、名称も別にならざるをえない。
また、私たちが理解するものの本質が同じであっても、私たちの気質や主義の違いのために理解の仕方はおのずと違ってくる。
つまり、同じものに対しても、ひとりひとりの気質や主義の違いによって異なる名称を使うことがあるし、名称はそれが感覚、感情に関するものであればあるほど意味が一定しない。
「言葉にはその本質として想定するものの他に、話し手の関心や性質も表明される」ということである。
ある者が善と称するものを他の人は悪と称することがある、そういったことの原理をこのように説明しているが、かんたんには隙を見つけられない鍛え抜かれた論理である。
第五章 推論および学問について
言語によって可能になったもうひとつの能力「推論」について、第五章の主旨は次の点である。
- 推論とは名称の配列を使った演算である
- 人間が「絶対に正しい推論」を下すことは不可能である
第四章では思考の連なりを言葉の連なりに変換し、名称によって思考を想起することを「理解」と定義した。
ここでは、人間はそうした言葉の連なりを「演算」に用いる能力があることを説明している。
推論とは、ある額にある額を加えると合計いくらになるか、またはある額からある額を引いたら残りいくらになるかを考えることである。
ホッブズいわく、幾何学が線や図形において演算を行うように、論理学者は言葉の配列を対象として演算を行うのである。
すなわち、二つの名称を組み合わせて断定をおこなう。次に、二つの断定を組み合わせて三段論法を組み立てる。そして、いくつもの三段論法を重ね合わせて一つの論証をおこなう。
だがここで重要なことは、人間が「絶対に正しい推論」を下すことは不可能であるということだ。
数の計算と同様に、どんな人でも推論にあたって錯誤に陥ることがある。それは言葉を使った演算でも変わらない。誤りの可能性は人間の演算において不可避である。
個人にせよ集団にせよ、およそ人の下す推論は正しいとは限らない。
したがって、論理の展開をめぐって論争が起きたときには、何らかの裁定者・審判者が必要となることが明らかになる。さもなくば、暴力によって相手を黙らせるしかない。
なぜなら、自然界の生み出す正しい推論などというものは、そもそも存在しないからである。
人間の推論能力についてのこの原理が、人間の集団において「裁判権」がその支配と密接不可分になることと大きく関わっていく。ここまできてようやく『リヴァイアサン』の国家論の影が見えてくるが、これでもまだ第五章である。このあともまだまだ人間の本性についての論理展開が続いていく。
ホッブズが活躍した17世紀は近代哲学のはじまりであるが、『リヴァイアサン』で語られるあれこれの本質は、2、300年後の哲学者たちがたどりついた答えをすでに言い当てていたのではないかと思える。
今回は『リヴァイアサン』の序盤を言語論として読んでみたが、言葉の本質を記号とその意味に分け、その結びつきは勘定都合という恣意的なものであるというのは、はっきりとソシュールの「シニフィアン・シニフィエ」の言語哲学に重なっている。
影響を受けたのかどうかは知らないが、トマス・ホッブズという哲学者は国家論を抜きにしても偉大な哲学者であることはこの点からも間違いない。