余白

lacolacoの余白は無限である

プロダクトバックログにおける緊急度について

バックログアイテムの緊急度が高いということは、そのアイテムの価値(重要度)のピークが今その瞬間にあるようなアイテム、または時間が経過すると重要度が急速に逓減するようなアイテムだと言える。今やらなければ意味がない、今やらなければ間に合わない、そのようなスケジュール特性をもったバックログアイテムが「緊急度が高い」と言われている。

このスケジュール特性は、リソース効率を重視する場合には重宝する。リソースを効率よく配分するには、それぞれのアイテムをいつ開始していつ完了するのかというスケジュールをパズルのように組み合わせて、アイテムを並行させながら進行させたい。リソース効率のためならば、より重要なアイテムがあったとしてもうまく他のアイテムの進行と噛み合わなければ後回しされることもある。したがって、リソース効率重視の優先順位付けにおいては、スケジュール特性としての緊急度は必要なパラメータになる。

一方で、フロー効率重視の優先順位付けにおいては、スケジュール特性はパラメータとなりにくい。重要度の高いアイテムのフロー効率を重視するならば、より重要なアイテムをより早くデリバリーしていくほかない。その場合、スケジュール特性はアイテムを完了するために必要な予算や人員など、いわゆるトレードオフスライダーにおける制約として影響するだけである。

プロダクトバックログにおいて緊急度を重要度に対抗しうる特性として捉えるということは、その優先順位付けがリソース効率を重視しようとしていることの現れであると言えるのではないか。それ自体が問題であるというわけではない。ただ、フロー効率を重視したデリバリーを志向しながら実態がそのようになっているとしたら、優先順位付けの基準を見直さなければならないのではないか。

「メタ合意」論に寄せて―『われわれ』の条件

nekogata.hatenablog.com

同僚であるしんぺいさんの記事を読んで、僕が前に書いたものを思い出した。 今ならもうちょっと違う言い方ができるような気がするし、しんぺいさんの合意の話ともちょっと繋がりそうな気がした。

lacolaco.hatenablog.com

以前僕は、合意をつくる場には2種類あって、以前はそれを「決める場」と「考える仲間」と表現した。 前者は利害が対立する者の集まりで自我同士の対立を調停するための合意をつくる場だが、後者は帰属意識のある仲間の集まりで全員が『われわれ』の立場で『われわれ』にとってのよりよい答えを求める場で、自己と場の関係が違うということを書いた。

利害が対立する者同士の場においては、関心事は常に自らにかかる利害であって、そうした状況では他の者が何をするかわからないというのは不安な状態だ。 この不安を減らすために、合意という形で他者がどのように行動し、その結果どのような利害が自らに降りかかるのかを予測できるようにする。 そういう安心のための協定が、利害関係者たちの「決める場」における合意の必然性だと考える。

一方で、仲間の場においては全員が一定の範囲で自我を共有している。そこでは共通の主語『われわれ』で話すことになる。『われわれ』はひとつの主体なので、『われわれ』が自分自身に害をなすわけがない。そうなると利害は関心にならない。関心になるのは『われわれ』の欲望をどのように満たすかということ。 個人の利己的行為がそのままその集団にとっての利とイコールであるようなあり方が、『われわれ』がつくられている状態だ。


翻って、しんぺいさんのいう「メタ合意」が作れる場というのは後者の場であって、逆にその場が利害関係者(ステークホルダー)の集まりになっている限りは「メタ合意」はつくられないのではないか。 つまり、「メタ合意」をつくるということは、その合意にまつわる関心事(=欲望)の限りで『われわれ』をつくることと同じであると言えるのではないか、と考えた。

チームなり組織なりに対して「何が『われわれ』をつないでいるのか」ということを問い直してみよう。 たとえばそれは目的かもしれないし、同族意識などなんでもありえるが、何らかの欲望が取り出せるはず。 しんぺいさんのいう「メタ合意」とは、このような『われわれ』の欲望のことであると思う。 その欲望によって、「その欲望が果たせなくなるようなことはしない」という最初の「メタ合意」が必然的に生まれるわけだから。

行動するのに合意が必要ということは、その関心事についてはまだ利害関係があり、『われわれ』の欲望ではないと捉えられる。 逆に、合意いりませんよといえる時には、その関心事について『われわれ』がつくれている、ということ。 だから合意が必要なときには、なぜそもそも利害関係が発生しているのかということを解きほぐそうとするといいだろうし、それは互いの欲望を表層から深層に向かって掘り下げていき、「ここについては同じ立場ですね」といえる欲望を掘り当てることである。


「メタ合意」をつくり相互に信頼しあえるようなチームや組織をどのようにつくるか、つまり『われわれ』をどのようにつくるかということについて。 それは「少なくともこの関心事においてこの場に利害関係はない」と言える欲望を見出すほかない。そのような欲望について考えるときだけは、『わたし』ではなく『われわれ』を主語にして語ることができる。だが、個に対して『われわれ』を押し付けるのは同調圧力になる。『われわれ』の欲望は広ければいいものではなく、その場において『われわれ』をつないでいるのは何かということを自覚し、言語化し、納得していることが重要だろう。

重要かつ高コストな「合意」の扱い方 - 猫型の蓄音機は 1 分間に 45 回にゃあと鳴く

組織サイズが小さい場合は「心理的安全性」と絡めた議論ができそう。サイズが大きい場合は立法・ルール化が避けられないと思う。メタ合意ルールは「その施策でいくら金(時間)がかかるか?」が本質になるだろう。

2022/05/20 13:49
b.hatena.ne.jp

この考察も面白くて、僕の『われわれ』論からこれを捉えてみた。

小さい集団は、その構成員それぞれの欲望や利害が把握しやすい。そのため明文化されていなくても、どこまでが『われわれ』で語れる欲望であるか、つまり「メタ合意」を察しやすい。そのことから、リスクがあっても行動できる心理的安全性につながるといえる。『われわれ』として自分のためにやることが、『われわれ』自身の害になるわけがないのだから。

一方で、サイズが大きくなることによって複雑さが増すと、そのような察し方は難しくなる。『われわれ』の境界がひと目には見えないから明文化が必須になる。さらに、人が多くなるということはそれだけ共有できる欲望の最大公約数は小さくなる。多様な欲望者たちのあいだで『われわれ』を維持するには、強いルールとしてメタ合意が必要になるだろう。

また、金や時間、労力のコストを減らしたいという欲望は、数少ない共通の(汎用性の高い)欲望として、メタ合意の拠り所になるだろう。それが本質といえるかどうかはわからないが。

(弊社Slackの times_lacolaco より抜粋・加筆編集)

なぜ人が足りなくなるのか

人が足りないとはどういうことか

「人が足りない」というのは、「必要な人的資源」に対して「現有の人的資源」が不足しているということである。つまり、「人が足りない」を構成するパラメータは2つあり、「人が足りない」というのは2つのパラメータのバランスを表現しているにすぎない。「現有」が十分かどうかはそれ自体では判断できず、「必要」に対しての相対評価にしかならない。

2つのパラメータの状態は「A<B」「A=B」「A>B」の3種類しかない。そのうちのひとつが「人が足りない」状態である。

人が足りることはあるのか?

3つの状態「不足」「充足」「過多」は、それぞれどのような状況で起こると考えられるだろうか。

「人が十分」であるというのは「必要」と「現有」がイコールであるということだが、持続的にそういう状態になるためには「必要」が長い間変わらないという条件がある。「必要」が中長期的に変わらないことを見越して、それにマッチする人的資源を割り当てれば、「必要」と「現有」がイコールの状態が作れる。 逆にいえば、「必要」がダイナミックに変化するような状況では、「現有」は「不足」と「過多」を行ったり来たりすることになり、「充足」にとどまることはない。

では「人が余っている」状態はどのように起きるのだろうか。この状態が持続する条件はひとつしかない。それは「欲望を持たないこと」である。 何らかの欲望がある限り、「現有」はその欲望を満たすために使い尽くされる。そして欲望が満たされれば、それを前提として新しい欲望を生み出す。それが繰り返され、結局は「人が足りない」状態にまで到達してはじめて活動は停止する。

つまり、組織が何らかの欲望を持ってしまう限り、中長期的には必ず「人が足りない」状態にしかならない。人が増えたとしても、短期的には「充足」や「過多」になることはあるが、欲望はそれでも「不足」するような 新しい「必要」 を生み出してしまう。ましてや現実には組織から人が抜けることもあるのだから、組織が欲望を持つ限り、絶対に「人が足りない」状態にしかならないのだ。

「優先順位」で短期的な「充足」を作る

つまり、「人が足りない」というのは特殊な状態なのではなくて、むしろ欲望を持つ組織にとっては自然な状態、時間が経てばかならずそうなる基底状態であると言える。そうであるからこそ、組織においては優先順位が必要になる。

なんでもできる資源があるなら何から手を付けてもすべて達成できるのだから、優先順位について考える必要はない。優先順位を決めるというのは、「現有」を基準にして「充足」するまで「必要」を減らすということであって、「どの順番に欲望を諦めるか」を決める意思決定である。 言いかえれば、優先順位とは短期的な「充足」を作るための作業である。したがって、最優先だとされるものだけ考えてもまだ「不足」しているなら、その優先順位設定は失敗している。まだ欲望を削りきれていない。

「必要」をどこまで分解できるか

組織が欲望を持つ限り、「人が足りない」状態は不可避であるし、むしろ自然な状態である。そして、何かしらの目的を持った組織であれば欲望を持たないわけにはいかない。そうであれば、組織にできることはいかに短期的な「充足」を作るかである。

ひとつの方法は、「必要」をコントロールすること。少しでも多くの欲望を満たすための優先順位を決め、最優先の欲望に限れば「充足」している状況を作ることである。最優先の欲望すら「不足」するのなら、欲望の分解が足りていないか、もはや何の欲望も持てないまでに「現有」が少ない。後者であればすべてを諦めよう。

もうひとつの方法は「現有」を増やすこと。だが人を増やしたり、成長させたりして「現有」を増やすことができたとしても、それによって生じる「充足」はそれを前提とした新しい「必要」によって使い果たされる。そのため、「必要」のコントロールは、作り出した「充足」を少しでも長続きさせるためには不可欠である。

  • 「人が足りない」は欲望を持つ組織にとって不可避の自然状態である
    • 「充足」「過多」は欲望を持つ限り持続しない
  • 優先順位によって「必要」をコントロールすることで、短期的な「充足」を生み出すことができる
  • 最優先の欲望ですら「不足」するのなら、その優先順位付けは失敗している

優先順位に従って行動しないなら優先順位をつけても意味はない

承前:

lacolaco.hatenablog.com

lacolaco.hatenablog.com


  • 約束とは、未来における行為の宣言と、その承認である
  • 他者がどのように行為するかは、自己にとって不可知の最たるものである
  • 約束によって人は、本来はもっとも不確実なものである他者の行為を、未来について考えるための前提にできるようになる
    • 「明日は9時にどこどこに待ち合わせ」という約束がなければ、相手と会えるかどうかは不確実性が高い
    • 相手のこれまでの習慣や明日のスケジュールについての知識など、過去に得た情報だけが推論の根拠となるが、過去の事例を根拠とした推論はどこまでいっても確かなものにはならない
  • 約束は、未来についての真の命題(推論の前提にできる事柄)を無から生み出すことができる
  • 人びとの間に約束がなければ、未来についての推論において、根拠となるのは過去の事例についての知識だけである

  • 約束が破られると、その約束から生まれていた命題はすべて偽となる
  • 偽の命題を前提とした推論はすべて意味をなさない
  • 約束を反故にするということは、その約束を頼りに未来について考えていたすべての人のすべての推論・計画を破壊することである
  • 今だけでなく未来の生活について、行きあたりばったりではない見通しを立てるためには、約束は不可欠のものである
  • それゆえに、「約束を守る」ということは、持続的な人間関係において欠かすことのできない態度である
  • ある他者との間で交わした約束のひとつが反故にされたとして、その相手が他の約束については守ってくれると信じられる根拠はなにもない
    • そもそも「約束を守る」というのがその人間関係に対する態度から生まれる行為であって、約束を反故にしてもよいと判断された人間関係の上で他の約束が守られると考えるのは矛盾している

  • 優先順位とは、「その順に優先して選択する」ことの約束である
  • 「優先して選択する」とは、優先されたものがあるうちは、劣後されたものを選択しない、ということである
  • 優先順位に従わずに行動するということは、約束を反故にしているのと同じである
  • つまり、将来に向けたあれこれの見立てを根幹から崩す行為である
  • 優先されるはずのことに資源が不足しているにもかかわらず、劣後されるはずのことに資源が割り当てられているとしたら、その優先順位は無視されている

  • 同列の優先順位というものは背理であり、意味をなさない
    • なんらかの選択の必要があるから優先順位があるのであって、選択しなくてよいのであれば優先順位そのものが無意味である
    • もし選択するときになってどちらかを選べるのなら、それはもともと同列ではなかったのである
    • 同列の優先順位において選択が迫られれば、選べるのは優先順位の再定義か、選択を放棄するかのどちらかである
    • 「どちらも」は選択ではない
  • 意味をなさない優先順位は、何の約束にもならない

欲望の取捨選択について

  • 取捨選択は、資源の有限性から要請される
    • 資源が無限であるならば、あらゆる欲望をいかようにも満たし続けうる
  • 欲望を抱く限り、有限の資源が欲望に対して十分であるということはない

    • なぜなら、「欲する」ということがすでに「足らぬ」を含意している
    • むしろ、現在の資源では足らないという有限性の実感が欲望そのものである
  • 欲望の取捨選択とは、どの欲望の達成可能性を高め、どの欲望の達成を諦めるかという選択の行為である

  • 取捨選択は、欲望の優先順位にしたがったあらゆる物的・時間的・精神的資源の配分として行われる

    • その欲望の達成可能性を十分確実にするだけの資源を配分するか、資源を配分せずに諦めるかという選択である
  • 義務、命令、「やらねばならないこと」は、その主体の欲望による行為ではない

  • 義務は、欲望と同列に取捨選択できる対象ではない
  • 資源の配分は、有限の資源から、諸義務に必要な分を差し引いた中でのみ可能である
  • もしも、諸義務について諸欲望と同列に資源配分の優先順位がつけられるのであれば、それは義務ではない
  • やらねばならないとされながらも、それを可能とする資源が配分されていないのならば、その達成は義務ではない
  • 優先度が高いとされながらも、それを可能とする資源が配分されておらず、かつそれよりも優先度が低いとされる欲望に資源が配分されているのならば、その欲望の実際の優先度は他よりも低い
    • 考えてみよ。優先度が高い欲望の達成について資源が不足しているにもかかわらず、余剰の資源が他の欲望に配分されるとするならば、その欲望よりも他の欲望へ向ける資源の充足度が優先されたということである。つまり、その欲望は達成できずともよいと判断されたことにほかならない
  • 欲望の達成を可能とする資源を配分しないことは、確実な達成を諦めたことと同じである
  • 以上の帰結として、資源の配分は、義務の遂行に必要なものを差し引いたうち、もっとも優先される欲望に十分な量を配分し、その残りを次に優先される欲望に向け、資源がなくなるまでこれを繰り返すほかない

  • 欲望の優先度が拮抗し、同列となった場合、その両方に十分な資源を配分できなければ、どちらかを諦めて片方への配分を十分にするか、どちらにも不十分に配分して達成を不確実にするか、どちらかしか選べない

    • だが、前者を選択できるならば、それは同列ではなく優先順位がつけられていたことを意味する
    • つまり、複数の欲望を真に同等に優先する場合、両方を十分に可能とする資源が無い限りにおいて、両方の確実な達成は諦めるほかない
  • 欲望の優先順位を誤るということは、資源の扱いを誤ることである

  • やらねばならないこと、やるべきでないことの判断を誤るということは、重用しなければならない人・物、忌避すべき人・物の判断を誤るということである