余白

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方法と目的

方法にはそれが考案者によって生み出された当初の目的がある。 しかしその方法が人びとの間で普及すると、当初の目的とは違う目的にも利用されはじめる。そしてこの状況は間違いであり悪であると評価されることがある。

ところで、方法の利用において正解と間違い、善と悪との評価を可能にするのはどのような根拠だろうか。 それはその方法を利用することが利用者とその利害関係者にとってどれだけ好ましい効果を生み出すかという結果への評価に他ならないだろう。 方法を当初の目的に沿って利用することが「正しい」とするならば、その方法は当初の目的のために利用することで最大の効果を生み出すということになる。

だが、効果の好ましさとは結果に対する評価であり、その評価を可能にする価値基準は利用者の目的ないしは欲望に根ざすものである。 つまり、異なる目的で利用された方法はそれぞれの価値基準で効果を評価されるのであり、効果の良し悪しは絶対的に測れるものではない。 方法がその当初の目的との間に高い適合性を見せるのは当然だが、「正しい目的」が最大の効果を生み出すという論理は、そもそもそれが誰にとっての効果かということを取りこぼしている。

ある者にとって最大の効果であっても、別の者にとって同様に評価されるとは限らない。 「正しい目的」という論理はその価値基準を正しいものとすることであり、すなわち客観的な「正しい認識」があるということを前提している。 そのように、当初の目的をその方法にとって最大の効果を生み出す条件であると考える、あるいは方法に「正しい目的」があると考える原理主義的な姿勢は、方法の可能性を不当に規定する。

方法の当初の目的についての考古学は、その方法がどのような目的に対してどの程度妥当であったかという前例を求める経験主義的な観点においては有益である。しかし、それ以外の目的に対して前例を超える効果(この比較こそが目的する者の評価なのだ)を生み出し得ることを否定することはできない。 方法の当初の目的が利用者の目的と異なっていたとしても、そのことは利用者がその方法から得られる価値の大小には関係しない。 方法はそれが利用される目的の数だけ、より大きくも小さくもなる価値の可能性を含んでいる。 優れた方法とはより多くの目的に試された方法、あるいは当初の目的からより遠く離れた目的にも試され得る方法ではないか。そのような方法はその価値にも広い可能性を有する。

因果関係に気をつけなければならない。ここまで述べたとおり、方法がもたらす効果はその目的によって評価されるものであるが、方法の実践に瑕疵がないにもかかわらず方法の効果が好ましいものでないとすれば、その原因は目的と方法の不適合に見出されるだろう。それはわれわれの目的を価値基準として方法の適合性を評価することだ。

しかし、方法を絶対視する者にはその逆のことが可能になる。つまり、方法を価値基準として目的の適合性を評価するのだ。「この方法がうまくいかないわけがない。もしうまくいかないのならば、それは目的が間違っているからだ」という次第だ。これを可能にするのが方法に「正しい目的」が存在するという錯誤である。 方法を絶対視するということは、その方法の考案者の価値基準を絶対視することである。 方法を当初の目的以外に利用することを間違いとみなす教条主義的、原理主義的な姿勢は、方法が目的を評価するという価値の顛倒を招くだろう。

目的する者は、目的によって方法を評価する。 われわれの目的が方法のための目的となってはならない。