ぼくは「なんだかんだ言っても本音ではこう思っているのであろう、それならば本音で語るべきだ」という「本音主義」とでも言うべき考え方があまりすきじゃないんだよな
— しんぺいくんさん (@shinpei0213) 2020年8月11日
自らの「素朴な実感」や「本音」を一歩引いたところから検証して制御することは知性の大切な機能のうちのひとつだと考えているからです。その意味で「なんだかんだ言っても」の部分はとても大切なものだと思うし大切にしたいと思う
— しんぺいくんさん (@shinpei0213) 2020年8月11日
しんぺいさんのツイートをみて、「本音」とはなんだろうかと考えた。
「本音」は「本心」から出た言葉であるとして、果たしてわれわれは自身の「本心」とそうでない心を使い分けられているのだろうか? あるいは、相手の言葉が「本音」であるかどうかをどう確信しているんだろうか。
実は、「相手はこう考えているに違いない」という確信あるいはレッテルと、相手からの言葉の間のギャップが少ないときに、都合よくそれを「本音」だと受け取っているだけなのではないか。「本音」とは、話し手の中ではなく聞き手の中にこそ存在するのではないか。 自分の中の相手のイメージとずれた言葉に対し、「本音で話してほしい」というならば、それは不協和の原因を相手の中に見出そうとしているのではないか?
どんなときに相手が「本音で話している」と感じるのか。どんなときに自分が「本音で話している」と感じるのか。
「本音」の在処、本質についてじっくり考えると面白そうだ。