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トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』の言語論

トマス・ホッブズリヴァイアサン』は一般に自然法や国家論について述べられた本だと認知されているが、その実、かなり射程の広い本だ。その理由は、彼もまたデカルトと同様に合理主義哲学者であり、国家とは何かということを考えるための出発点は人間の本性(と聖書)にしか根拠を置かなかったからだ。ゆえにこの本の第一部は『人間について』である。

いうなれば、『リヴァイアサン』は「国家」というものを素因数分解した哲学である。国家という概念を構成する要素を因数分解していき、たしかめ可能な最後の要素まで追い詰めた。そしてスタートラインとなるのは、デカルトの「我思う故に我あり」と同じく、人間の感覚と思考である。ホッブズは人間精神を前提とした論理的な推論から国家の本質を説明した。

したがって、『リヴァイアサン』は国家論の哲学であると同時に、その大部分は人間の本性についての哲学である。その内容もなかなか的を射た、おもわず唸らされる論理展開が多い。国家論に興味がなくとも、『リヴァイアサン』から学べることは今でも多いだろう。

そこで本稿ではトマス・ホッブズの言語論、言語の本質についての記述を『リヴァイアサン』から取り出してみようと思う。対象とするのは、第一部の第一章から第五章である。

第一章 感覚について

この章の主旨は、次の2点にある。

  • 思考とは、私たちの外部にある物体(対象)を心に思い浮かべることである
  • 思考を生み出す「感覚」とは、対象から受けた刺激により形成された心象である

ここでは、人間がある対象を思い浮かべて思考するとき、その思い浮かべられたものは対象そのものではなく、対象から身体が受けた感覚によって、自らの心のなかで形成された心象であると記述される。

実体としての対象はその内部に、私たちの側に生じる心象をそなえているように見えるが、対象と心象は別物である。したがって、感覚というのはあくまでも、その場で新たに形成される心象だということがわかる。

つまり、これは認識論としては対象そのものと、現象の認識を分けて考えている。そして、心象が「その場で形成される」ものとしているのが興味深い。つまり、一切の認識は信憑・確信であるということに加え、その確信形成の根拠は内的なものであることがはっきりしている。このことが第四章、第五章において重要になる。

第二章 イマジネーションについて

この章の主旨は、次の3点にある。

  • イマジネーションとは薄れゆく感覚である
  • イマジネーション記憶は同一である
  • 「理解」とは、記号に想起されるイマジネーションである

ホッブズはここで、感覚=心象が対象とは切り離され、一度形成されたあとは対象と別様に有るということを、イマジネーションという概念で説明する。 イマジネーションとは、空間的距離や時間的距離によって次第に薄れていった心象であり、希薄化した心象のことをわれわれは記憶と呼んでいる。

また、薄れてしまったイマジネーションは、なんらかのきっかけで再び想起されることがある。 われわれが何かを「理解」しているというのは、なんらかの記号によって特定の心象を想起するということにほかならない。

第三章 イマジネーションの波及ないし連鎖について

この章の主旨は次の点である。

  • 思考の連鎖とは、ひとつの思考が他の思考につながることである

思考は一度始まると、次々に他の思考に連鎖する。これはイマジネーションの連鎖である。 つまり、思考によって思い浮かべられた心象が刺激となって、別のイマジネーションを想起させ、それについて思考するとまた再び別のイマジネーションが想起される。

このような思考の連鎖は、人間が理性を持った動物として生得的に発揮する知力である。そして、人間が持つ知力の中で、努力の必要なく発揮される能力はイマジネーションの働きだけであるという。 人間の知力には感覚、思考、思考の連鎖(=イマジネーションの働き)以外はない。それ以外の人間固有のあらゆる能力は、言語を操る能力と、それによって考えを秩序立てる推論の能力によって高められている。

第四章 話す能力について

いよいよ言語について語られる第四章の主題は次の点である。

  • 話すとは、思考の連鎖名称の配列に変える行為である
  • 言語によって、因果関係を記憶しておくことが容易になる
  • 二つの名詞を組み合わせると一個の命題ないし断定が得られる
  • 学問とは、名称を正しく定義し理解することである
  • 理解とは、語句の配置や構成によって表される思考を把握する行為である

第三章で述べられた思考の連鎖は、それが思考である限り記憶したり伝達することは難しい。 だが、人間は言語によって自分の思考を記憶にとどめ、言葉をきっかけに過去の思考を思い起こすことができるし、自分の思考を他人に伝えることができるようになる。 いいかえれば、「話すという行為の一般的な効用は、思考の連なりが言葉の連なりに変わるというところにある」という。 つまり、「話す」とは、思考の連鎖を名称の配列として言語化することである。

特にこの章で面白いのは、名称は勘定に入れられるものに与えられるという考え方である。「勘定に入れられるもの」とは、足せば和が得られ、引けば差が残るもののことである。

ホッブズは、同じ物であっても、偶有性(付随的性質)が異なれば別々に勘定されることがあるという。例えば、ただの「食べ物」ではなく分けて数えたいから「くだもの」という名が与えられ、同様に「リンゴ」という名で分けて数えられる。そして同じ「リンゴ」でも、それを産地ごとに分けて勘定するのならば、「国産リンゴ」や「外国産リンゴ」のような名称が与えられるということだ。

これはつまり、名前というのは人間の都合で「分けたいもの」に応じてついているということであって、物に名前を割り当てているのではなく言葉が世界を分節するという意味で実にソシュール的である。17世紀にしてすでにここにたどりついているのは慧眼というほかない。

そして、第三章でも触れられた「理解」は、言語能力によって人間固有の理解能力としてあらためて説明される。 すなわち、理解とは、語句の配置や構成によって表される思考を把握する行為である。 いいかえれば、「思考の連鎖」を「言葉の連なり」に変換する「話す」とは正反対に、逆に「言葉の連なり」から「思考」を読み取ることが「理解」である。

何らかの話を聞いて、使われている語句の配置や構成によって表される思考が把握できたら、その話を理解したと言える。

つまり、「理解とは、言語がもたらす概念にほかならない」

さらにホッブズは、理解の個人差についても述べている。同じ言葉=記号であっても、人によってどのような意味を理解しているかどうかは違うことを、次のように説明する。 感情を刺激するものを表す名称は、意味が一定しない。なぜなら、刺激が同じであっても人によって受ける作用が異なるし、刺激を受けるのが同一人物であっても毎回同じ作用を受けるとも限らないからである。 また、あらゆる名称は、私たちが思考する概念を表すために付けられるものであって、思考の本源は感覚=心象であった。

同一物に対して異なる概念を抱くならば、名称も別にならざるをえない。 また、私たちが理解するものの本質が同じであっても、私たちの気質や主義の違いのために理解の仕方はおのずと違ってくる。 つまり、同じものに対しても、ひとりひとりの気質や主義の違いによって異なる名称を使うことがあるし、名称はそれが感覚、感情に関するものであればあるほど意味が一定しない。 「言葉にはその本質として想定するものの他に、話し手の関心や性質も表明される」ということである。

ある者が善と称するものを他の人は悪と称することがある、そういったことの原理をこのように説明しているが、かんたんには隙を見つけられない鍛え抜かれた論理である。

第五章 推論および学問について

言語によって可能になったもうひとつの能力「推論」について、第五章の主旨は次の点である。

  • 推論とは名称の配列を使った演算である
  • 人間が「絶対に正しい推論」を下すことは不可能である

第四章では思考の連なりを言葉の連なりに変換し、名称によって思考を想起することを「理解」と定義した。 ここでは、人間はそうした言葉の連なりを「演算」に用いる能力があることを説明している。

推論とは、ある額にある額を加えると合計いくらになるか、またはある額からある額を引いたら残りいくらになるかを考えることである。 ホッブズいわく、幾何学が線や図形において演算を行うように、論理学者は言葉の配列を対象として演算を行うのである。

すなわち、二つの名称を組み合わせて断定をおこなう。次に、二つの断定を組み合わせて三段論法を組み立てる。そして、いくつもの三段論法を重ね合わせて一つの論証をおこなう。

だがここで重要なことは、人間が「絶対に正しい推論」を下すことは不可能であるということだ。 数の計算と同様に、どんな人でも推論にあたって錯誤に陥ることがある。それは言葉を使った演算でも変わらない。誤りの可能性は人間の演算において不可避である。

個人にせよ集団にせよ、およそ人の下す推論は正しいとは限らない。

したがって、論理の展開をめぐって論争が起きたときには、何らかの裁定者・審判者が必要となることが明らかになる。さもなくば、暴力によって相手を黙らせるしかない。

なぜなら、自然界の生み出す正しい推論などというものは、そもそも存在しないからである。

人間の推論能力についてのこの原理が、人間の集団において「裁判権」がその支配と密接不可分になることと大きく関わっていく。ここまできてようやく『リヴァイアサン』の国家論の影が見えてくるが、これでもまだ第五章である。このあともまだまだ人間の本性についての論理展開が続いていく。


ホッブズが活躍した17世紀は近代哲学のはじまりであるが、『リヴァイアサン』で語られるあれこれの本質は、2、300年後の哲学者たちがたどりついた答えをすでに言い当てていたのではないかと思える。 今回は『リヴァイアサン』の序盤を言語論として読んでみたが、言葉の本質を記号とその意味に分け、その結びつきは勘定都合という恣意的なものであるというのは、はっきりとソシュールの「シニフィアンシニフィエ」の言語哲学に重なっている。 影響を受けたのかどうかは知らないが、トマス・ホッブズという哲学者は国家論を抜きにしても偉大な哲学者であることはこの点からも間違いない。

約束について

  • 約束は、言葉を交わすことによって、それまでに存在していなかったひとつの命題を生み出す
  • 論理的な思考(推論)とは、2つの命題から三段論法を導き、三段論法を重ねて結論を導くことである
    • 命題は2つの名称を並べて作られる
  • 約束は、それまでは無関係だった2つの名称から新しい命題を生み出す、あるいは確率的な推測にすぎず蓋然性が低かった命題を真であると(対義語は偽である)定義しなおす
  • 推論は、真なる命題の重ね合わせから結論を導く
  • 結論の前提となる真の命題が加えられることは、その結論の蓋然性・信憑性・確実性を高めることになる
  • 推論を組み立てる中に偽の命題が入り込めば、その推論は意味をなさなくなる
  • 約束は、未来における命題を、それが果たされることを前提として真とする
  • 約束を反故にすることは、その約束によって生み出された命題が偽となることを意味する
    • つまり、偽の命題を真であると定義したことと同じであり、嘘をついたことになる
    • また、果たすことが不可能な約束をすることも同じである
  • 約束は、未来のことを予測するうえで、その不確実性を取り除くための材料となる命題を人間どうしで言葉を交わして作り出すことができる
    • 「明日は9時にどこどこに待ち合わせ」という約束がなければ、相手と会えるかどうかは不確実性の高いものとなる
    • 相手のこれまでの習慣や明日のスケジュールについての知識など、過去に得た情報だけが推論の根拠となるが、過去の事例を根拠とした推論はどこまでいっても確かなものにはならない(真なる命題たりえない)
    • 約束は、未来についての(それが守られる限りは)真なる命題を無から生み出すことができる
  • 約束が作り出す命題は、自分以外の他者の行為についての命題である
    • 人は自己にコントロール可能なこと以外を約束することはできない
      • 「明日は雨が降る」ということを予測しても、それは約束とはなりえない(単なる推論結果)
    • 他者がどのように行為するかは、自己にとって不可知の最たるものである(他者性)
    • 推論にあたって、もっとも不確実なことをもっとも確実なことに転回させるのが約束である
  • 未来についての推論は、その約束が作り出す命題を出発点とすることができる
    • 「明日は9時に待ち合わせ だから 8時に出発すれば間に合うだろう」
  • 人びとの間に約束がなければ、未来についての推論において、根拠となるのは過去の事例についての知識だけである
    • 過去の事例についての知識から、一般的な法則を使って計算していく
    • 過去の事例というものが、そのときのすべての状況的要素を記憶できているわけではないため、この種の推論はかならず不確かなものになる
  • 約束だけは、未来についての推論においてたしかに真なる命題として根拠となりえる
  • それゆえに、約束を反故にするということはあらゆる未来についての推論を破壊することになる
  • ある推論の結論は、それ自体がひとつの命題となって次の推論の根拠となるため、ひとつの命題が偽であることがわかれば、そこから連鎖的につながったすべての推論が意味を成さなくなる
  • 今だけでなく未来の生活について、行きあたりばったりではない見通しを立てるためには、約束は不可欠のものである
  • それゆえに、「約束を守る」ということは社会的な善であり、道徳的な規範として広く共有される
  • だが、約束は言葉によって交わされただけで、破られうるという意味での不確実性を持つ
    • 過去の事例についての知識は、(未知の事実の発見によりそれまでの知識が覆ることを除けば)知識それ自体は確実なものであるが、ある事例の原因であるすべての情報を把握することは不可能であるため、その意味で推論の根拠としての不確実性を持つ
  • それゆえに、約束には実効性が強く問われることとなる。約束が果たされるかどうかの蓋然性は、そのままその約束によって可能となる命題の蓋然性と等しい
  • 約束に実効性を持たせるためのもっとも一般的な方法は、約束を反故にすることへのペナルティを設けることである
    • これは、約束した当事者全員にとっての未来の推論(見積もり)において、約束を果たした上での未来と、約束を反故にした未来を比較した際に、後者のほうに十分な不利益が生じなければ意味がない
    • 誰か一人でも、ペナルティを受けたとしてもその後の未来においてそれと釣り合う以上の利益があると見積もることができてしまえば、約束は反故にされてもしかたがない
  • だが、どれだけ約束を重ねても未来の不確実性がなくなることはないため、どれほどのペナルティであれば確実に実効性を持たせることができるかも正確に見積もることはできない
  • 約束を守ることを社会的正義であるとする道徳的な規範精神は、この見積もりの不確実性をある程度はカバーする
    • たとえペナルティが十分なものでなかったとしても、それが道徳に反するという各人の意識において抑制されるのであれば約束は果たされる

雑記: 説明的表題コンテンツとプロセスエコノミー

ここで「説明的表題コンテンツ」と呼ぶのは、いわゆる「なろう系」に代表されるような、最近では珍しくなくなってきた、大筋の内容がそのままタイトルになったような説明的なタイトルをつけられた小説や漫画などのコンテンツである。

いろいろな作品を「なろう系タイトルに変換」してみた件 - Togetter

「厳選【2022】異世界マンガおすすめ35選!転生・チート・なろう系が熱い」 | 電子書籍ストア-BOOK☆WALKER

一方、「プロセスエコノミー」のほうは特に説明はいらないだろう。生産活動において、アウトプットではなくそのプロセスに価値の重心が置かれた消費経済の形である。

プロセスエコノミー あなたの物語が価値になる | 尾原 和啓 |本 | 通販 | Amazon

「プロセスエコノミー」が必然になる2つ理由──「消費活動の変化」と「若者のオタク化」 | DIAMOND SIGNAL

一見すると関係なさそうなこのふたつには、実は深いところで共通点があるのではないかというのが今回のテーマである。


「説明的表題コンテンツ」の流行の大きな要因は「小説家になろう」にあるようだ。ランキング競争の激化から、少しでも興味を持ってもらうために広まった手法であるようだ。

なろう系やラノベのタイトルが内容説明的文章になった源流は俺妹からですか? - Quora

そして、このランキングの仕様上、タイトルだけで話の内容がわかること、もっと言えば読者が読みたい要素が作品に含まれているかが判断できることが要求されます。

そのため、なろうの長いタイトルは、単に長いだけではなく、必要な要素を詰め込まれたものになっています。作品のタイトルを見ていただけると、「○○に転生」「無双」「追放」「スローライフ」「悪役令嬢」など、要素キーワードがそのまま入っている作品が多いのがお分かりいただけると思います。

言うなれば、「小説家になろう」においてタイトルは、ハッシュタグの機能やあらすじの機能をも果たさなければならないものなのです。

たくさんの小説が投稿される中で、良し悪し以前に評価を受けるためにはまず読まれる必要があるが、その「読まれる」こと自体を奪い合う競争になっている。多くの読者は自分の好みに合う小説を探しているのだと仮定すれば、より多くの人の琴線に触れるよう「要素」を目立たせることが合理的になる。つまり、その小説の「面白い部分」を、「読まなくてもわかる」ようにタイトルへ詰め込む。このような理屈で説明的表題は合理的なマーケティング戦略として定着する。

しかし、「読んでもらいたい」という本来的な目的に対して「読まなくてもわかるように内容を説明する」という手段は、リスキーであり本末転倒であるようにも感じられる。その理由は、内容を説明しすぎたためにあえて読もうと思わなくなる可能性や、タイトルに込められた要素が(もしも小説として読んでいれば面白く感じられたとしても)読むことを敬遠させてしまう可能性が考えられるからである。

だが、この様相は、プロセスエコノミーという角度から眺めるとまた違った景色に見えてくる。


プロセスエコノミーの成り立ちも、モノの価値が飽和して差別化が難しくなってきたことに要因があるという。 アウトプットの質だけでは競争に勝てないために、そのアウトプットを生み出すプロセスを売りにするようになっていき、やがてプロセスそのものがアウトプットであるかのように価値の重心が移っていく。アウトプットはプロセスを消費するためのエントリポイントにすぎなくなっている。

この「アウトプット」を「小説」に置き換えて、説明的表題コンテンツについての話に戻ろう。 説明的表題コンテンツにおいて、表題が内容を説明してしまうことが「読んでもらう」という目的を毀損するのではないか、つまり小説の小説としての価値を貶めるのではないかという懸念を上に示した。だが、これは小説の「価値」についての一側面、あるいはひとつの価値の見方にすぎないのではないかということが、プロセスエコノミーという存在から想像できる。

つまり、説明的表題コンテンツの価値の重心は、その設定や結末といった「要素としての価値」から移動しているのだ。そうであるからこそ、説明的表題によって「要素」については読まなくてもわかるようにするという選択ができるのだ。「要素」が価値の重心であればこんなことはできない。 そうだとすれば、その価値の重心はどこへ移動しているのか。考えられるのはそれら要素を「どのように表現しているのか」という部分、つまり手段の部分である。まさにここがプロセスエコノミーとの接近が見られる部分でもある。

もともと「なろう系」は読者と作者が近い関係にあり、デビュー前の作家を応援しているということがすでにプロセスエコノミー的な点でもあるが、さらに作品それ自体ではなくその作品を生み出す作家と、それが生み出されるに至るストーリーがプロセスエコノミーの現場となっていることを意味する。そうした中で発表される作品は、ただの小説としての消費のされかたではなく、むしろその作家というプロセスを消費するためのエントリポイントと見ることもできるのではないだろうか。価値の重心が小説そのものではなく作家とその小説の生み出され様に移っている、そのことが説明的表題によるマーケティング戦略を可能にしている根底にあるものであり、まさしくプロセスエコノミーにおける価値のありかたではないか。

対話のテーブルとインターネット

対話のテーブル

対話というおこないの定義を『対話をデザインする』(細川英雄)から引用する。

  • 「常に他者としての相手を想定した」発話
  • 「話題に関する他者の存在の有無」
  • 「一つの話題をめぐって異なる立場の他者に納得してもらうために語る行為」

発言者と他者との間で対話がおこなわれる場のことをここでは「対話のテーブル」と呼ぶ。*1 このテーブルには発言者が提示する言論が載せられ、その話題が想定する他者たちがテーブルを囲んで言論を評価し、反論し、賛同するような場を作る。 対話がうまれるとき、そこにはかならず対話のテーブルがあり、何かしらの言論がテーブルに載せられており、他者とともにテーブルを囲んでいる。

言論を対話のテーブルに載せるには、次の2つの条件を満たしていなければならない。

  • その言論が反論に対して開かれていること
  • その言論を成立させる論理が明解であること

言論が反論に対して開かれていること

対話が原理的に「異なる立場の他者」を想定するものであれば、テーブルに載せた言論に対して反論があることは当然のことであるし、他者からの反論が可能な場になっていなければならない。 言論が反論に対して開かれるためには、少なくとも次の2つが必要条件になる。

  • 発言者と他者が双方向に意見を述べられること(コミュニケーションの双方向性)
  • その言論が複数人の間で共通する間主観的確信*2についての話題であること(話題の普遍性)

言論を成立させる論理が明解であること

言論をテーブルに載せて他者と議論するためには、その言論が他者から理解可能でなければならない。 そのため、言論を構成する論理展開は次の2つが必要条件になる。

  • その言論において使用されている言葉が正しく定義されている(コミュニケーション成立の信憑性)
  • 前提から最終的な結論に至るまでの推論の過程が示されている(推論の検証可能性)

これらの条件について、それらが満たされない言論を想定することで背理法的に妥当性を確かめていきたい。

反論に対して開かれていない言論

まず、反論に対して開かれていない言論について考えてみよう。

第一の条件に反して「発言者と他者が双方向に意見を述べられない」場合、対話は可能だろうか。 もっとも極端な例は誰にもアクセスできない場で述べた場合だが、これは誰にも知り得ないのだから当然誰にも反論できない。 では、限られた人にだけ伝えられた言論ではどうだろう。そのような言論を知りうるすべは、誰かからの伝聞や噂になる。 そのような信憑性の低い二次情報に対して反論することはできるだろうか。 この場合、発言者と他者は同じ場を共有していない。反論したとしても発言者からの返答はない。したがって対話は成立しない。

第二の条件に反して「その言論が複数人の間で共通する間主観的確信についての話題ではない」場合、対話は可能だろうか。 間主観的確信と対になるのは個的確信である。個的確信とは、主観的な認識で成立している確信や信念、思い込みなどである。 個的確信についての言論はその話題に他者が存在しないのだから、対話は成立しない。

成立させる論理が明解でない言論

次に、成立させる論理が明解でない言論についても同様に考えてみよう。

第一の条件に反して「その言論において使用されている言葉が正しく定義されていない」場合、対話は可能だろうか。 言論の前提となる言葉が未定義であると、発言者と他者との間で意思の疎通ができているという信憑性が薄れてしまう。 他者からすれば発言者が言いたいことがわからないし、発言者からしても思いどおりに伝わった上での反論なのかどうかわからない。 つまり、これはコミュニケーションがそもそも成立していない。 よって当然だが、同じ言葉を使っていて同じ意味が伝わっていると十分に確信できないならば、対話は成立しないと言える。

第二の条件に反して「前提から最終的な結論に至るまでの推論の過程が示されていない」場合、対話は可能だろうか。 前提から最終的な結論に至る過程のどこかに論理の飛躍や前提の省略があると、他者は発言者がたどった論理展開を検証することができない。 たとえ発言者の頭の中では理路整然としていても、他者からすれば論理の途中に不可知なブラックボックスがある状態だ。 このように他人が確かめることのできない推論は、同じ前提から異なる結論を導く他者との間で意見を対立させることができない。 なぜなら、他者からは不可知の論理を操作して、反論を無効化する後出しジャンケンが可能になるからだ。 言いかえれば、論理展開のどこかひとつにでも個的確信を前提とすれば、間主観的確信な話題のための論理としては破綻する。 破綻した論理に対しての反論は無意味であり、そのような場は「一つの話題をめぐって異なる立場の他者に納得してもらうために語る行為」の場とはならず、対話は成立しない。

このように、ある言論を対話のテーブルに載せるための必要条件、あるいはある言論が対話のテーブルに堪えうるための必要条件を取り出した。 ちなみに「その言論が反論に対して開かれていること」と「その言論を成立させる論理が明解であること」は、「科学のテーブル」ではよく知られる「反証可能性」そのものだ。そして、「哲学のテーブル」では「たしかめ可能性」*3と呼ばれる。 つまりは、他者となんらかの確信を共有しようとする場には、かならず「反論が可能であり、反論を受け付けていること」が条件になるといえる。これが対話においても同じであるということだ。

言論をインターネットに公開することは対話のテーブルに載せることか

言論が対話のテーブルに載る条件が検討できたところで、生活世界においての事象について考察してみたい。 言論をインターネットに公開することは対話のテーブルに載せることといえるだろうか。結論からいえば、必ずしも対話のテーブルに載っているとはいえない。

まず問われるのは「その言論が反論に対して開かれている」かどうかである。その内訳は、コミュニケーションに双方向性があるかどうかと、話題の間主観性であった。 双方向性については、公開された言論がコメントやレビューを受け付けているかといった点から考えられる。そのコメントに発言者本人が反応できれば双方向性があるといえるだろう。 話題の普遍性は、発言者以外の他者にも適用するような話題であれば普遍性があると言える。 逆に、発言者自身の意思や信念についての話題であれば普遍性は(少なくとも発言者の意図のうちには)ない。

次に、「その言論を成立させる論理が明解である」かどうかについては、コミュニケーション成立の信憑性があるかどうかと、推論の検証可能性であった。 反論可能な(=対話に堪えうる)言論かどうかは、抽象的で意味の定まらない言葉で論理を展開していないかという観点や、論理展開の中に個人的な信念や思い込み、道徳観が含まれていないかという観点で確認することができる。

このような観点から見ると、インターネットに公開されているからといって対話のテーブルに載る準備ができた言論であるとは言えないだろう。 また、発言者は意図的に対話のテーブルに自分の言論を載せたくないと思っていることもある。 それでも現実には、対話のテーブルに載っていない言論に対して反論が向けられることがある。そしてそれは往々にして痛みを伴うものになる。 なぜそのようなことになるか。

なぜ対話のテーブルに載せたくないと思っているのに他者から反論を受けることがあるか

考えられる原因は2つある。ひとつは発言者の意図によらず言論が対話のテーブルに載ってしまうことがあるからだ。 それは発言者自身は個的確信について述べていたつもりが、それを受け取った他者からは自分も巻き込む間主観的確信だと解釈できたような場合だ。 たとえば、発言者はあくまでも自分の信念について語っていたつもりが、他者からはそれを押し付けているように感じられ、反論したくなってしまう。 個的確信であることを明確に示さずに、普遍的に成立する確信であるかのように発言してしまうことで、意図していない他者が反論できるようになってしまうことは、十分に考えられるだろう。これは発言者側の注意によって防ぐことができる。

もうひとつは、話題にかかわらず他者の個的確信に対して侵害することをいとわない攻撃的な人間が存在するからだ。 発言者の個的確信についての言論だとわかっていて、なお自らの個的確信と照らして好ましくないという理由で否定する態度を取る人間は存在する。 この場合、個的確信だとわかっていて否定するということは、相手の信念や意思、感覚を否定することであり、まさしく人格の否定である。 発言者側はそのような人に見つからないように隠れ、見つかったら無視することしかできない。

「反論されたくないなら公開するな」という主張もありえるが、これはそのような攻撃者の論理である。 その言論が法やルール(普遍的確信の最たるもの)に反していないのならば、それが個的なものであると示されている限りで「対話しない自由」を求めることは理にかなっているはずだ。その代わり、その言論は他者を巻き込むことを放棄しなければならない。

逆にいえば、間主観的な確信をつくろうと、他者を巻き込もうとするならば、言論を対話のテーブルに載せなければならない。 反論を受け付けずに他者を巻き込むのは独善的であり、信念の押しつけである。そして反論できない論理で他者を巻き込むのは、詭弁であり詐欺である。 自分の意見に同調しない反論を遮断することは、対話からはほど遠いふるまいだ。

反論すべきか、沈黙すべきか

さまざまな言論が飛び交うインターネットの中で、自分を巻き込むようなものに遭遇すると反論したくなる欲望は避けられないだろう。 なぜなら、それは(主観的には)他者からの一方的な確信の押し付けであり、「私はそうじゃない」と言わなければそれを受け入れたことになるように感じるからだ。

だが、それがもし発言者個人の個的確信の表現にすぎないとしたら、反論したとしてもそこに対話のテーブルはない。お互いに間主観的確信を作ろうという気はないのだから、個的確信同士をぶつけ合っても何も生まれない。下手をすればわかりあう余地があったはずの関係を毀損するかもしれない。 また、他者からはたしかめ不可能な論理を展開する相手には、真っ向から反論したところで勝ち目はない。論理の破綻を指摘しても、それを受け入れてくれる相手ばかりではない。そうした破綻は往々にして主観的な信念や思い込みに根ざしており、論理へ指摘したつもりが人格の否定だと受け取られることもありえる。

ここからは私の個的確信である。対話のテーブルに載っていない言論に対して反論を試みるのは、多くの場合衝突や望ましくない応酬へ発展し、疲弊することになる。 私が反論できるのは、その言論が対話のテーブルに載っており、反論から対話がうまれると確信できるものだけである。それ以外には沈黙せざるをえない。

*1:竹田青嗣の「哲学のテーブル」からの借用

*2:自分と他者が共に抱いている確信

*3:苫野一徳『はじめての哲学的思考』より借用

成長の条件と目標の限界

成長の条件

成長、進歩、発展、進化…これらの言葉の本質は「好ましい変化」である。変化前とくらべて変化後の状態が「好ましい」ならば、その変化は成長や進歩と呼ばれる。

ここから、成長の条件が2つ取り出せる。ひとつは「変化すること」、もうひとつは「変化の差分を評価すること」。 変化が起きなければ成長はありえない。また、差分を評価できなければその変化は成長とはいえない。なぜなら衰退や後退も変化であることには変わらないからだ。

したがって、個人や集団の成長を促すときには、その成長を妨げているのが 「変化の滞り」 であるのか、「差分評価の欠陥」 であるのかを見分けなければ効果的な支援にならないだろう。

目標の限界

明確な理想像を目標として与えることは、成長を促すために必要な要素だが、それだけでは十分でない。なぜなら、目標の効果は「差分評価の欠陥」を修正することだけだからだ。どのような変化が好ましい変化かという判断基準が、「目標達成にどれほど寄与するか」というわかりやすい尺度を与えられることで間違えにくくなるというのが目標の力である。だが、これは成長の条件のすべてではない。

目標を与えるだけで成長や進歩を見せる個人や集団は、目標が与えられる前から変化しつづけていた個人や集団である。ただそこに指針がなくどちらが前かわからなかっただけで、変化することはもともとできているような人々だ。そのような場合には、明確な目標を与えることが解決策となる。

だが、「変化の滞り」を抱えている場合には目標だけでは解決しない。人間にも慣性の法則がある。止まっているものが外からのエネルギーなしにみずから動き出すことはなかなかない。集団になればなおさら現状を維持しようとする力学は強化される。そのような相手へ成長を促すには、まず変化を起こすことが最優先になる。そのためには、目標とともに初速をつける働きかけが不可欠だ。一度動き出して何らかの変化を起こせば、それが最善でなくとも成長に向けた条件のひとつをクリアできる。あとは目標を基準にした差分評価ができれば、次の変化に向けた加速度がつく。

目標はあくまでも目標である。人は北極星の引力によって北に向かうのではない。北極星歩む人のための目印である。立ち止まったままの人にとっては、どちらが北でも関係ない。