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対話のテーブルとインターネット

対話のテーブル

対話というおこないの定義を『対話をデザインする』(細川英雄)から引用する。

  • 「常に他者としての相手を想定した」発話
  • 「話題に関する他者の存在の有無」
  • 「一つの話題をめぐって異なる立場の他者に納得してもらうために語る行為」

発言者と他者との間で対話がおこなわれる場のことをここでは「対話のテーブル」と呼ぶ。*1 このテーブルには発言者が提示する言論が載せられ、その話題が想定する他者たちがテーブルを囲んで言論を評価し、反論し、賛同するような場を作る。 対話がうまれるとき、そこにはかならず対話のテーブルがあり、何かしらの言論がテーブルに載せられており、他者とともにテーブルを囲んでいる。

言論を対話のテーブルに載せるには、次の2つの条件を満たしていなければならない。

  • その言論が反論に対して開かれていること
  • その言論を成立させる論理が明解であること

言論が反論に対して開かれていること

対話が原理的に「異なる立場の他者」を想定するものであれば、テーブルに載せた言論に対して反論があることは当然のことであるし、他者からの反論が可能な場になっていなければならない。 言論が反論に対して開かれるためには、少なくとも次の2つが必要条件になる。

  • 発言者と他者が双方向に意見を述べられること(コミュニケーションの双方向性)
  • その言論が複数人の間で共通する間主観的確信*2についての話題であること(話題の普遍性)

言論を成立させる論理が明解であること

言論をテーブルに載せて他者と議論するためには、その言論が他者から理解可能でなければならない。 そのため、言論を構成する論理展開は次の2つが必要条件になる。

  • その言論において使用されている言葉が正しく定義されている(コミュニケーション成立の信憑性)
  • 前提から最終的な結論に至るまでの推論の過程が示されている(推論の検証可能性)

これらの条件について、それらが満たされない言論を想定することで背理法的に妥当性を確かめていきたい。

反論に対して開かれていない言論

まず、反論に対して開かれていない言論について考えてみよう。

第一の条件に反して「発言者と他者が双方向に意見を述べられない」場合、対話は可能だろうか。 もっとも極端な例は誰にもアクセスできない場で述べた場合だが、これは誰にも知り得ないのだから当然誰にも反論できない。 では、限られた人にだけ伝えられた言論ではどうだろう。そのような言論を知りうるすべは、誰かからの伝聞や噂になる。 そのような信憑性の低い二次情報に対して反論することはできるだろうか。 この場合、発言者と他者は同じ場を共有していない。反論したとしても発言者からの返答はない。したがって対話は成立しない。

第二の条件に反して「その言論が複数人の間で共通する間主観的確信についての話題ではない」場合、対話は可能だろうか。 間主観的確信と対になるのは個的確信である。個的確信とは、主観的な認識で成立している確信や信念、思い込みなどである。 個的確信についての言論はその話題に他者が存在しないのだから、対話は成立しない。

成立させる論理が明解でない言論

次に、成立させる論理が明解でない言論についても同様に考えてみよう。

第一の条件に反して「その言論において使用されている言葉が正しく定義されていない」場合、対話は可能だろうか。 言論の前提となる言葉が未定義であると、発言者と他者との間で意思の疎通ができているという信憑性が薄れてしまう。 他者からすれば発言者が言いたいことがわからないし、発言者からしても思いどおりに伝わった上での反論なのかどうかわからない。 つまり、これはコミュニケーションがそもそも成立していない。 よって当然だが、同じ言葉を使っていて同じ意味が伝わっていると十分に確信できないならば、対話は成立しないと言える。

第二の条件に反して「前提から最終的な結論に至るまでの推論の過程が示されていない」場合、対話は可能だろうか。 前提から最終的な結論に至る過程のどこかに論理の飛躍や前提の省略があると、他者は発言者がたどった論理展開を検証することができない。 たとえ発言者の頭の中では理路整然としていても、他者からすれば論理の途中に不可知なブラックボックスがある状態だ。 このように他人が確かめることのできない推論は、同じ前提から異なる結論を導く他者との間で意見を対立させることができない。 なぜなら、他者からは不可知の論理を操作して、反論を無効化する後出しジャンケンが可能になるからだ。 言いかえれば、論理展開のどこかひとつにでも個的確信を前提とすれば、間主観的確信な話題のための論理としては破綻する。 破綻した論理に対しての反論は無意味であり、そのような場は「一つの話題をめぐって異なる立場の他者に納得してもらうために語る行為」の場とはならず、対話は成立しない。

このように、ある言論を対話のテーブルに載せるための必要条件、あるいはある言論が対話のテーブルに堪えうるための必要条件を取り出した。 ちなみに「その言論が反論に対して開かれていること」と「その言論を成立させる論理が明解であること」は、「科学のテーブル」ではよく知られる「反証可能性」そのものだ。そして、「哲学のテーブル」では「たしかめ可能性」*3と呼ばれる。 つまりは、他者となんらかの確信を共有しようとする場には、かならず「反論が可能であり、反論を受け付けていること」が条件になるといえる。これが対話においても同じであるということだ。

言論をインターネットに公開することは対話のテーブルに載せることか

言論が対話のテーブルに載る条件が検討できたところで、生活世界においての事象について考察してみたい。 言論をインターネットに公開することは対話のテーブルに載せることといえるだろうか。結論からいえば、必ずしも対話のテーブルに載っているとはいえない。

まず問われるのは「その言論が反論に対して開かれている」かどうかである。その内訳は、コミュニケーションに双方向性があるかどうかと、話題の間主観性であった。 双方向性については、公開された言論がコメントやレビューを受け付けているかといった点から考えられる。そのコメントに発言者本人が反応できれば双方向性があるといえるだろう。 話題の普遍性は、発言者以外の他者にも適用するような話題であれば普遍性があると言える。 逆に、発言者自身の意思や信念についての話題であれば普遍性は(少なくとも発言者の意図のうちには)ない。

次に、「その言論を成立させる論理が明解である」かどうかについては、コミュニケーション成立の信憑性があるかどうかと、推論の検証可能性であった。 反論可能な(=対話に堪えうる)言論かどうかは、抽象的で意味の定まらない言葉で論理を展開していないかという観点や、論理展開の中に個人的な信念や思い込み、道徳観が含まれていないかという観点で確認することができる。

このような観点から見ると、インターネットに公開されているからといって対話のテーブルに載る準備ができた言論であるとは言えないだろう。 また、発言者は意図的に対話のテーブルに自分の言論を載せたくないと思っていることもある。 それでも現実には、対話のテーブルに載っていない言論に対して反論が向けられることがある。そしてそれは往々にして痛みを伴うものになる。 なぜそのようなことになるか。

なぜ対話のテーブルに載せたくないと思っているのに他者から反論を受けることがあるか

考えられる原因は2つある。ひとつは発言者の意図によらず言論が対話のテーブルに載ってしまうことがあるからだ。 それは発言者自身は個的確信について述べていたつもりが、それを受け取った他者からは自分も巻き込む間主観的確信だと解釈できたような場合だ。 たとえば、発言者はあくまでも自分の信念について語っていたつもりが、他者からはそれを押し付けているように感じられ、反論したくなってしまう。 個的確信であることを明確に示さずに、普遍的に成立する確信であるかのように発言してしまうことで、意図していない他者が反論できるようになってしまうことは、十分に考えられるだろう。これは発言者側の注意によって防ぐことができる。

もうひとつは、話題にかかわらず他者の個的確信に対して侵害することをいとわない攻撃的な人間が存在するからだ。 発言者の個的確信についての言論だとわかっていて、なお自らの個的確信と照らして好ましくないという理由で否定する態度を取る人間は存在する。 この場合、個的確信だとわかっていて否定するということは、相手の信念や意思、感覚を否定することであり、まさしく人格の否定である。 発言者側はそのような人に見つからないように隠れ、見つかったら無視することしかできない。

「反論されたくないなら公開するな」という主張もありえるが、これはそのような攻撃者の論理である。 その言論が法やルール(普遍的確信の最たるもの)に反していないのならば、それが個的なものであると示されている限りで「対話しない自由」を求めることは理にかなっているはずだ。その代わり、その言論は他者を巻き込むことを放棄しなければならない。

逆にいえば、間主観的な確信をつくろうと、他者を巻き込もうとするならば、言論を対話のテーブルに載せなければならない。 反論を受け付けずに他者を巻き込むのは独善的であり、信念の押しつけである。そして反論できない論理で他者を巻き込むのは、詭弁であり詐欺である。 自分の意見に同調しない反論を遮断することは、対話からはほど遠いふるまいだ。

反論すべきか、沈黙すべきか

さまざまな言論が飛び交うインターネットの中で、自分を巻き込むようなものに遭遇すると反論したくなる欲望は避けられないだろう。 なぜなら、それは(主観的には)他者からの一方的な確信の押し付けであり、「私はそうじゃない」と言わなければそれを受け入れたことになるように感じるからだ。

だが、それがもし発言者個人の個的確信の表現にすぎないとしたら、反論したとしてもそこに対話のテーブルはない。お互いに間主観的確信を作ろうという気はないのだから、個的確信同士をぶつけ合っても何も生まれない。下手をすればわかりあう余地があったはずの関係を毀損するかもしれない。 また、他者からはたしかめ不可能な論理を展開する相手には、真っ向から反論したところで勝ち目はない。論理の破綻を指摘しても、それを受け入れてくれる相手ばかりではない。そうした破綻は往々にして主観的な信念や思い込みに根ざしており、論理へ指摘したつもりが人格の否定だと受け取られることもありえる。

ここからは私の個的確信である。対話のテーブルに載っていない言論に対して反論を試みるのは、多くの場合衝突や望ましくない応酬へ発展し、疲弊することになる。 私が反論できるのは、その言論が対話のテーブルに載っており、反論から対話がうまれると確信できるものだけである。それ以外には沈黙せざるをえない。

*1:竹田青嗣の「哲学のテーブル」からの借用

*2:自分と他者が共に抱いている確信

*3:苫野一徳『はじめての哲学的思考』より借用