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雑記: 説明的表題コンテンツとプロセスエコノミー

ここで「説明的表題コンテンツ」と呼ぶのは、いわゆる「なろう系」に代表されるような、最近では珍しくなくなってきた、大筋の内容がそのままタイトルになったような説明的なタイトルをつけられた小説や漫画などのコンテンツである。

いろいろな作品を「なろう系タイトルに変換」してみた件 - Togetter

「厳選【2022】異世界マンガおすすめ35選!転生・チート・なろう系が熱い」 | 電子書籍ストア-BOOK☆WALKER

一方、「プロセスエコノミー」のほうは特に説明はいらないだろう。生産活動において、アウトプットではなくそのプロセスに価値の重心が置かれた消費経済の形である。

プロセスエコノミー あなたの物語が価値になる | 尾原 和啓 |本 | 通販 | Amazon

「プロセスエコノミー」が必然になる2つ理由──「消費活動の変化」と「若者のオタク化」 | DIAMOND SIGNAL

一見すると関係なさそうなこのふたつには、実は深いところで共通点があるのではないかというのが今回のテーマである。


「説明的表題コンテンツ」の流行の大きな要因は「小説家になろう」にあるようだ。ランキング競争の激化から、少しでも興味を持ってもらうために広まった手法であるようだ。

なろう系やラノベのタイトルが内容説明的文章になった源流は俺妹からですか? - Quora

そして、このランキングの仕様上、タイトルだけで話の内容がわかること、もっと言えば読者が読みたい要素が作品に含まれているかが判断できることが要求されます。

そのため、なろうの長いタイトルは、単に長いだけではなく、必要な要素を詰め込まれたものになっています。作品のタイトルを見ていただけると、「○○に転生」「無双」「追放」「スローライフ」「悪役令嬢」など、要素キーワードがそのまま入っている作品が多いのがお分かりいただけると思います。

言うなれば、「小説家になろう」においてタイトルは、ハッシュタグの機能やあらすじの機能をも果たさなければならないものなのです。

たくさんの小説が投稿される中で、良し悪し以前に評価を受けるためにはまず読まれる必要があるが、その「読まれる」こと自体を奪い合う競争になっている。多くの読者は自分の好みに合う小説を探しているのだと仮定すれば、より多くの人の琴線に触れるよう「要素」を目立たせることが合理的になる。つまり、その小説の「面白い部分」を、「読まなくてもわかる」ようにタイトルへ詰め込む。このような理屈で説明的表題は合理的なマーケティング戦略として定着する。

しかし、「読んでもらいたい」という本来的な目的に対して「読まなくてもわかるように内容を説明する」という手段は、リスキーであり本末転倒であるようにも感じられる。その理由は、内容を説明しすぎたためにあえて読もうと思わなくなる可能性や、タイトルに込められた要素が(もしも小説として読んでいれば面白く感じられたとしても)読むことを敬遠させてしまう可能性が考えられるからである。

だが、この様相は、プロセスエコノミーという角度から眺めるとまた違った景色に見えてくる。


プロセスエコノミーの成り立ちも、モノの価値が飽和して差別化が難しくなってきたことに要因があるという。 アウトプットの質だけでは競争に勝てないために、そのアウトプットを生み出すプロセスを売りにするようになっていき、やがてプロセスそのものがアウトプットであるかのように価値の重心が移っていく。アウトプットはプロセスを消費するためのエントリポイントにすぎなくなっている。

この「アウトプット」を「小説」に置き換えて、説明的表題コンテンツについての話に戻ろう。 説明的表題コンテンツにおいて、表題が内容を説明してしまうことが「読んでもらう」という目的を毀損するのではないか、つまり小説の小説としての価値を貶めるのではないかという懸念を上に示した。だが、これは小説の「価値」についての一側面、あるいはひとつの価値の見方にすぎないのではないかということが、プロセスエコノミーという存在から想像できる。

つまり、説明的表題コンテンツの価値の重心は、その設定や結末といった「要素としての価値」から移動しているのだ。そうであるからこそ、説明的表題によって「要素」については読まなくてもわかるようにするという選択ができるのだ。「要素」が価値の重心であればこんなことはできない。 そうだとすれば、その価値の重心はどこへ移動しているのか。考えられるのはそれら要素を「どのように表現しているのか」という部分、つまり手段の部分である。まさにここがプロセスエコノミーとの接近が見られる部分でもある。

もともと「なろう系」は読者と作者が近い関係にあり、デビュー前の作家を応援しているということがすでにプロセスエコノミー的な点でもあるが、さらに作品それ自体ではなくその作品を生み出す作家と、それが生み出されるに至るストーリーがプロセスエコノミーの現場となっていることを意味する。そうした中で発表される作品は、ただの小説としての消費のされかたではなく、むしろその作家というプロセスを消費するためのエントリポイントと見ることもできるのではないだろうか。価値の重心が小説そのものではなく作家とその小説の生み出され様に移っている、そのことが説明的表題によるマーケティング戦略を可能にしている根底にあるものであり、まさしくプロセスエコノミーにおける価値のありかたではないか。