余白

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SHIROBAKO 第23話は何度観ても同じところで泣いてしまう

SHIROBAKO Advent Calendar 2021 - Adventarの13日目です。

僕はアニメや映画で何度見返しても同じ場面で泣いちゃう爆弾をいくつも涙腺に抱えているんですが、SHIROBAKOの第23話はそのうちのひとつです。

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今日書きたいのは、このシーンがいかに感動的なものなのかという評論ではなくて、なぜ僕は毎回このシーンで泣いてしまうんだろうという内省です。

結論から言うと、僕はこのシーンにおいて「おそらく彼女らの人生において一回しかないであろう、これまでの時間とロマンとが一体となった『成就』の実感、その儚くも偉大な瞬間に立ち会えたことの喜びと哀しさ」を感動として実感しているのだと思っています。

これまでの時間とロマンとが一体となった『成就』の実感

哲学のゼミで『感動』とは何かということについて考える本質観取に参加したことがあります。 そのときに『感動』には「奇跡型」と「軌跡型」があるのではないかという提起がされたのが印象に残っています。

奇跡型の『感動』というのは、自分の予想を裏切ったり越えたりしてくるような、超越的・圧倒的な事象との出会いに感じるものです。 一方、軌跡型の『感動』というのは、積み上げてきた時間や経験、つまり自分自身が、手が届かないと思っていた「ほんとう」と接続し、一体となった感覚から覚えるものです。 ロマンとの一体感、「つながった」実感。これまでの時間はこれと出会うためにあったんだと思うような昇華の感覚。そういう種類の感動もあると思います。

宮森はずかちゃんのこれまでの軌跡を知っている身として、ずかちゃんにとっての夢、ロマン、「ほんとう」の小さくも確かな成就を自分ごとのように実感し、共涙を流したんだろうと思いますが、この瞬間にロマンとつながったのはずかちゃんだけではなく、宮森自身もそうだと思います。宮森にとって自分ではどうしようもない手の届かないところにあった「アニメ同好会のみんなでアニメを作る」という夢(ロマン)が、突然目の前に現実のものとして到来したわけで、宮森自身にとってもロマン、「ほんとう」と出会った瞬間であるわけです。 そんな世界が変わるような瞬間は彼女らの人生において何度も起こることではなく、もう二度と訪れないかもしれない偉大なものです。そして今感じているこの実感も時間がたって思い出になっていく。そんな儚さと切なさ、『最期』の感覚が、その瞬間をたまらなく尊く、愛おしいものにします。

そうして、僕は喜びと同時に哀しさも同居した感動を、このシーンから呼び起こされてしまうわけです。 アニメの素晴らしいところは、彼ら彼女らにとっては一度きりのその瞬間を、僕は何度も体験できるところです。何周しても毎回同じ場所で感動してボロボロ泣いてしまいます。もう完全にわかっているのに感動してしまうのは、やはり感動に「奇跡型」と「軌跡型」の類型があることを実感させてくれます。

これ何の話?

これ何の話だったんでしょうね。 SHIROBAKOアドベントカレンダーは折返したばかりですので、14日目の記事をお楽しみに!