余白

https://blog.lacolaco.net/ に移転しました

雑記: 説明的表題コンテンツとプロセスエコノミー

ここで「説明的表題コンテンツ」と呼ぶのは、いわゆる「なろう系」に代表されるような、最近では珍しくなくなってきた、大筋の内容がそのままタイトルになったような説明的なタイトルをつけられた小説や漫画などのコンテンツである。

いろいろな作品を「なろう系タイトルに変換」してみた件 - Togetter

「厳選【2022】異世界マンガおすすめ35選!転生・チート・なろう系が熱い」 | 電子書籍ストア-BOOK☆WALKER

一方、「プロセスエコノミー」のほうは特に説明はいらないだろう。生産活動において、アウトプットではなくそのプロセスに価値の重心が置かれた消費経済の形である。

プロセスエコノミー あなたの物語が価値になる | 尾原 和啓 |本 | 通販 | Amazon

「プロセスエコノミー」が必然になる2つ理由──「消費活動の変化」と「若者のオタク化」 | DIAMOND SIGNAL

一見すると関係なさそうなこのふたつには、実は深いところで共通点があるのではないかというのが今回のテーマである。


「説明的表題コンテンツ」の流行の大きな要因は「小説家になろう」にあるようだ。ランキング競争の激化から、少しでも興味を持ってもらうために広まった手法であるようだ。

なろう系やラノベのタイトルが内容説明的文章になった源流は俺妹からですか? - Quora

そして、このランキングの仕様上、タイトルだけで話の内容がわかること、もっと言えば読者が読みたい要素が作品に含まれているかが判断できることが要求されます。

そのため、なろうの長いタイトルは、単に長いだけではなく、必要な要素を詰め込まれたものになっています。作品のタイトルを見ていただけると、「○○に転生」「無双」「追放」「スローライフ」「悪役令嬢」など、要素キーワードがそのまま入っている作品が多いのがお分かりいただけると思います。

言うなれば、「小説家になろう」においてタイトルは、ハッシュタグの機能やあらすじの機能をも果たさなければならないものなのです。

たくさんの小説が投稿される中で、良し悪し以前に評価を受けるためにはまず読まれる必要があるが、その「読まれる」こと自体を奪い合う競争になっている。多くの読者は自分の好みに合う小説を探しているのだと仮定すれば、より多くの人の琴線に触れるよう「要素」を目立たせることが合理的になる。つまり、その小説の「面白い部分」を、「読まなくてもわかる」ようにタイトルへ詰め込む。このような理屈で説明的表題は合理的なマーケティング戦略として定着する。

しかし、「読んでもらいたい」という本来的な目的に対して「読まなくてもわかるように内容を説明する」という手段は、リスキーであり本末転倒であるようにも感じられる。その理由は、内容を説明しすぎたためにあえて読もうと思わなくなる可能性や、タイトルに込められた要素が(もしも小説として読んでいれば面白く感じられたとしても)読むことを敬遠させてしまう可能性が考えられるからである。

だが、この様相は、プロセスエコノミーという角度から眺めるとまた違った景色に見えてくる。


プロセスエコノミーの成り立ちも、モノの価値が飽和して差別化が難しくなってきたことに要因があるという。 アウトプットの質だけでは競争に勝てないために、そのアウトプットを生み出すプロセスを売りにするようになっていき、やがてプロセスそのものがアウトプットであるかのように価値の重心が移っていく。アウトプットはプロセスを消費するためのエントリポイントにすぎなくなっている。

この「アウトプット」を「小説」に置き換えて、説明的表題コンテンツについての話に戻ろう。 説明的表題コンテンツにおいて、表題が内容を説明してしまうことが「読んでもらう」という目的を毀損するのではないか、つまり小説の小説としての価値を貶めるのではないかという懸念を上に示した。だが、これは小説の「価値」についての一側面、あるいはひとつの価値の見方にすぎないのではないかということが、プロセスエコノミーという存在から想像できる。

つまり、説明的表題コンテンツの価値の重心は、その設定や結末といった「要素としての価値」から移動しているのだ。そうであるからこそ、説明的表題によって「要素」については読まなくてもわかるようにするという選択ができるのだ。「要素」が価値の重心であればこんなことはできない。 そうだとすれば、その価値の重心はどこへ移動しているのか。考えられるのはそれら要素を「どのように表現しているのか」という部分、つまり手段の部分である。まさにここがプロセスエコノミーとの接近が見られる部分でもある。

もともと「なろう系」は読者と作者が近い関係にあり、デビュー前の作家を応援しているということがすでにプロセスエコノミー的な点でもあるが、さらに作品それ自体ではなくその作品を生み出す作家と、それが生み出されるに至るストーリーがプロセスエコノミーの現場となっていることを意味する。そうした中で発表される作品は、ただの小説としての消費のされかたではなく、むしろその作家というプロセスを消費するためのエントリポイントと見ることもできるのではないだろうか。価値の重心が小説そのものではなく作家とその小説の生み出され様に移っている、そのことが説明的表題によるマーケティング戦略を可能にしている根底にあるものであり、まさしくプロセスエコノミーにおける価値のありかたではないか。

対話のテーブルとインターネット

対話のテーブル

対話というおこないの定義を『対話をデザインする』(細川英雄)から引用する。

  • 「常に他者としての相手を想定した」発話
  • 「話題に関する他者の存在の有無」
  • 「一つの話題をめぐって異なる立場の他者に納得してもらうために語る行為」

発言者と他者との間で対話がおこなわれる場のことをここでは「対話のテーブル」と呼ぶ。*1 このテーブルには発言者が提示する言論が載せられ、その話題が想定する他者たちがテーブルを囲んで言論を評価し、反論し、賛同するような場を作る。 対話がうまれるとき、そこにはかならず対話のテーブルがあり、何かしらの言論がテーブルに載せられており、他者とともにテーブルを囲んでいる。

言論を対話のテーブルに載せるには、次の2つの条件を満たしていなければならない。

  • その言論が反論に対して開かれていること
  • その言論を成立させる論理が明解であること

言論が反論に対して開かれていること

対話が原理的に「異なる立場の他者」を想定するものであれば、テーブルに載せた言論に対して反論があることは当然のことであるし、他者からの反論が可能な場になっていなければならない。 言論が反論に対して開かれるためには、少なくとも次の2つが必要条件になる。

  • 発言者と他者が双方向に意見を述べられること(コミュニケーションの双方向性)
  • その言論が複数人の間で共通する間主観的確信*2についての話題であること(話題の普遍性)

言論を成立させる論理が明解であること

言論をテーブルに載せて他者と議論するためには、その言論が他者から理解可能でなければならない。 そのため、言論を構成する論理展開は次の2つが必要条件になる。

  • その言論において使用されている言葉が正しく定義されている(コミュニケーション成立の信憑性)
  • 前提から最終的な結論に至るまでの推論の過程が示されている(推論の検証可能性)

これらの条件について、それらが満たされない言論を想定することで背理法的に妥当性を確かめていきたい。

反論に対して開かれていない言論

まず、反論に対して開かれていない言論について考えてみよう。

第一の条件に反して「発言者と他者が双方向に意見を述べられない」場合、対話は可能だろうか。 もっとも極端な例は誰にもアクセスできない場で述べた場合だが、これは誰にも知り得ないのだから当然誰にも反論できない。 では、限られた人にだけ伝えられた言論ではどうだろう。そのような言論を知りうるすべは、誰かからの伝聞や噂になる。 そのような信憑性の低い二次情報に対して反論することはできるだろうか。 この場合、発言者と他者は同じ場を共有していない。反論したとしても発言者からの返答はない。したがって対話は成立しない。

第二の条件に反して「その言論が複数人の間で共通する間主観的確信についての話題ではない」場合、対話は可能だろうか。 間主観的確信と対になるのは個的確信である。個的確信とは、主観的な認識で成立している確信や信念、思い込みなどである。 個的確信についての言論はその話題に他者が存在しないのだから、対話は成立しない。

成立させる論理が明解でない言論

次に、成立させる論理が明解でない言論についても同様に考えてみよう。

第一の条件に反して「その言論において使用されている言葉が正しく定義されていない」場合、対話は可能だろうか。 言論の前提となる言葉が未定義であると、発言者と他者との間で意思の疎通ができているという信憑性が薄れてしまう。 他者からすれば発言者が言いたいことがわからないし、発言者からしても思いどおりに伝わった上での反論なのかどうかわからない。 つまり、これはコミュニケーションがそもそも成立していない。 よって当然だが、同じ言葉を使っていて同じ意味が伝わっていると十分に確信できないならば、対話は成立しないと言える。

第二の条件に反して「前提から最終的な結論に至るまでの推論の過程が示されていない」場合、対話は可能だろうか。 前提から最終的な結論に至る過程のどこかに論理の飛躍や前提の省略があると、他者は発言者がたどった論理展開を検証することができない。 たとえ発言者の頭の中では理路整然としていても、他者からすれば論理の途中に不可知なブラックボックスがある状態だ。 このように他人が確かめることのできない推論は、同じ前提から異なる結論を導く他者との間で意見を対立させることができない。 なぜなら、他者からは不可知の論理を操作して、反論を無効化する後出しジャンケンが可能になるからだ。 言いかえれば、論理展開のどこかひとつにでも個的確信を前提とすれば、間主観的確信な話題のための論理としては破綻する。 破綻した論理に対しての反論は無意味であり、そのような場は「一つの話題をめぐって異なる立場の他者に納得してもらうために語る行為」の場とはならず、対話は成立しない。

このように、ある言論を対話のテーブルに載せるための必要条件、あるいはある言論が対話のテーブルに堪えうるための必要条件を取り出した。 ちなみに「その言論が反論に対して開かれていること」と「その言論を成立させる論理が明解であること」は、「科学のテーブル」ではよく知られる「反証可能性」そのものだ。そして、「哲学のテーブル」では「たしかめ可能性」*3と呼ばれる。 つまりは、他者となんらかの確信を共有しようとする場には、かならず「反論が可能であり、反論を受け付けていること」が条件になるといえる。これが対話においても同じであるということだ。

言論をインターネットに公開することは対話のテーブルに載せることか

言論が対話のテーブルに載る条件が検討できたところで、生活世界においての事象について考察してみたい。 言論をインターネットに公開することは対話のテーブルに載せることといえるだろうか。結論からいえば、必ずしも対話のテーブルに載っているとはいえない。

まず問われるのは「その言論が反論に対して開かれている」かどうかである。その内訳は、コミュニケーションに双方向性があるかどうかと、話題の間主観性であった。 双方向性については、公開された言論がコメントやレビューを受け付けているかといった点から考えられる。そのコメントに発言者本人が反応できれば双方向性があるといえるだろう。 話題の普遍性は、発言者以外の他者にも適用するような話題であれば普遍性があると言える。 逆に、発言者自身の意思や信念についての話題であれば普遍性は(少なくとも発言者の意図のうちには)ない。

次に、「その言論を成立させる論理が明解である」かどうかについては、コミュニケーション成立の信憑性があるかどうかと、推論の検証可能性であった。 反論可能な(=対話に堪えうる)言論かどうかは、抽象的で意味の定まらない言葉で論理を展開していないかという観点や、論理展開の中に個人的な信念や思い込み、道徳観が含まれていないかという観点で確認することができる。

このような観点から見ると、インターネットに公開されているからといって対話のテーブルに載る準備ができた言論であるとは言えないだろう。 また、発言者は意図的に対話のテーブルに自分の言論を載せたくないと思っていることもある。 それでも現実には、対話のテーブルに載っていない言論に対して反論が向けられることがある。そしてそれは往々にして痛みを伴うものになる。 なぜそのようなことになるか。

なぜ対話のテーブルに載せたくないと思っているのに他者から反論を受けることがあるか

考えられる原因は2つある。ひとつは発言者の意図によらず言論が対話のテーブルに載ってしまうことがあるからだ。 それは発言者自身は個的確信について述べていたつもりが、それを受け取った他者からは自分も巻き込む間主観的確信だと解釈できたような場合だ。 たとえば、発言者はあくまでも自分の信念について語っていたつもりが、他者からはそれを押し付けているように感じられ、反論したくなってしまう。 個的確信であることを明確に示さずに、普遍的に成立する確信であるかのように発言してしまうことで、意図していない他者が反論できるようになってしまうことは、十分に考えられるだろう。これは発言者側の注意によって防ぐことができる。

もうひとつは、話題にかかわらず他者の個的確信に対して侵害することをいとわない攻撃的な人間が存在するからだ。 発言者の個的確信についての言論だとわかっていて、なお自らの個的確信と照らして好ましくないという理由で否定する態度を取る人間は存在する。 この場合、個的確信だとわかっていて否定するということは、相手の信念や意思、感覚を否定することであり、まさしく人格の否定である。 発言者側はそのような人に見つからないように隠れ、見つかったら無視することしかできない。

「反論されたくないなら公開するな」という主張もありえるが、これはそのような攻撃者の論理である。 その言論が法やルール(普遍的確信の最たるもの)に反していないのならば、それが個的なものであると示されている限りで「対話しない自由」を求めることは理にかなっているはずだ。その代わり、その言論は他者を巻き込むことを放棄しなければならない。

逆にいえば、間主観的な確信をつくろうと、他者を巻き込もうとするならば、言論を対話のテーブルに載せなければならない。 反論を受け付けずに他者を巻き込むのは独善的であり、信念の押しつけである。そして反論できない論理で他者を巻き込むのは、詭弁であり詐欺である。 自分の意見に同調しない反論を遮断することは、対話からはほど遠いふるまいだ。

反論すべきか、沈黙すべきか

さまざまな言論が飛び交うインターネットの中で、自分を巻き込むようなものに遭遇すると反論したくなる欲望は避けられないだろう。 なぜなら、それは(主観的には)他者からの一方的な確信の押し付けであり、「私はそうじゃない」と言わなければそれを受け入れたことになるように感じるからだ。

だが、それがもし発言者個人の個的確信の表現にすぎないとしたら、反論したとしてもそこに対話のテーブルはない。お互いに間主観的確信を作ろうという気はないのだから、個的確信同士をぶつけ合っても何も生まれない。下手をすればわかりあう余地があったはずの関係を毀損するかもしれない。 また、他者からはたしかめ不可能な論理を展開する相手には、真っ向から反論したところで勝ち目はない。論理の破綻を指摘しても、それを受け入れてくれる相手ばかりではない。そうした破綻は往々にして主観的な信念や思い込みに根ざしており、論理へ指摘したつもりが人格の否定だと受け取られることもありえる。

ここからは私の個的確信である。対話のテーブルに載っていない言論に対して反論を試みるのは、多くの場合衝突や望ましくない応酬へ発展し、疲弊することになる。 私が反論できるのは、その言論が対話のテーブルに載っており、反論から対話がうまれると確信できるものだけである。それ以外には沈黙せざるをえない。

*1:竹田青嗣の「哲学のテーブル」からの借用

*2:自分と他者が共に抱いている確信

*3:苫野一徳『はじめての哲学的思考』より借用

成長の条件と目標の限界

成長の条件

成長、進歩、発展、進化…これらの言葉の本質は「好ましい変化」である。変化前とくらべて変化後の状態が「好ましい」ならば、その変化は成長や進歩と呼ばれる。

ここから、成長の条件が2つ取り出せる。ひとつは「変化すること」、もうひとつは「変化の差分を評価すること」。 変化が起きなければ成長はありえない。また、差分を評価できなければその変化は成長とはいえない。なぜなら衰退や後退も変化であることには変わらないからだ。

したがって、個人や集団の成長を促すときには、その成長を妨げているのが 「変化の滞り」 であるのか、「差分評価の欠陥」 であるのかを見分けなければ効果的な支援にならないだろう。

目標の限界

明確な理想像を目標として与えることは、成長を促すために必要な要素だが、それだけでは十分でない。なぜなら、目標の効果は「差分評価の欠陥」を修正することだけだからだ。どのような変化が好ましい変化かという判断基準が、「目標達成にどれほど寄与するか」というわかりやすい尺度を与えられることで間違えにくくなるというのが目標の力である。だが、これは成長の条件のすべてではない。

目標を与えるだけで成長や進歩を見せる個人や集団は、目標が与えられる前から変化しつづけていた個人や集団である。ただそこに指針がなくどちらが前かわからなかっただけで、変化することはもともとできているような人々だ。そのような場合には、明確な目標を与えることが解決策となる。

だが、「変化の滞り」を抱えている場合には目標だけでは解決しない。人間にも慣性の法則がある。止まっているものが外からのエネルギーなしにみずから動き出すことはなかなかない。集団になればなおさら現状を維持しようとする力学は強化される。そのような相手へ成長を促すには、まず変化を起こすことが最優先になる。そのためには、目標とともに初速をつける働きかけが不可欠だ。一度動き出して何らかの変化を起こせば、それが最善でなくとも成長に向けた条件のひとつをクリアできる。あとは目標を基準にした差分評価ができれば、次の変化に向けた加速度がつく。

目標はあくまでも目標である。人は北極星の引力によって北に向かうのではない。北極星歩む人のための目印である。立ち止まったままの人にとっては、どちらが北でも関係ない。

ふりかえりの本質・事象評価の4象限・KPTの矯正効果

ふりかえりの本質

まずはじめに、ふりかえりの本質は「ある特定の時間・空間的範囲において発生した事象に対する評価」であるということから説明する。

時間的範囲は過去のある時点から現在までの範囲が典型的だが、場合によっては未来の時点も含む。いわゆる事前検死(プレモーテム)は未来の失敗を終点とするふりかえりである。また、空間的範囲はふりかえりの対象となる個人や集団が知覚可能な範囲だ。離れたチームや地球の裏側の事象まで対象にすることはない。

ふりかえりの対象は必ずしもふりかえりを行う当人とは限らない。他人の活動を外部からふりかえることもできる。 だが、ふりかえりという活動から評価とそれを行う評価者の存在は除外できない。 もっとも根本的な評価は事象の選別である。ふりかえりの中でどの事象を取り上げ、どの事象を取り上げないかという選別がすでに事象に対する評価である。 その上でさまざまな基準によって個々の事象の意味が評価される。

このような意味においてふりかえりとは「ある特定の時間・空間的範囲において発生した事象に対する評価」であり、ふりかえりを行う主体は常に事象の評価者である。

事象評価の4象限

学習を目的としたふりかえりであれば、特に強く関心が向けられるのは事象の「価値の評価」と「蓋然性の評価」である。その理由は次の通りだ。

学習の成果は、学習の前後で発生する事象の変化を見てとる以外に評価しえない。 ある学習が好ましい学習であったかという評価は、学習前後で比較したときに好ましい事象が増え、好ましくない事象が減っているかどうかの評価にほかならない。 また、ある事象の発生が学習の成果であるという因果関係を捉えるためには、事象発生の蓋然性を評価できることも欠かせない。 つまり、学習の成果を評価するためには、ある事象の好ましさという「価値の評価」と、その発生の「蓋然性の評価」が必要となる。

この関心のもとで事象を捉えると、次のような事象評価の4象限が表れる。

事象発生の蓋然性とは、その事象をもたらす要因が偶然的な要因に支配されている程度である。 つまり、蓋然性が低く好ましい事象とは、幸運に恵まれた偶然の賜物である(そもそも好ましい事象をもたらした偶然のことを『幸運』と呼ぶのであるが)。 同様に蓋然性が低く好ましくない事象の要因は不運である。 このような要因は主体の能力や気質ではどうしようもない外的なものであり、これらを「状況的要因」と呼ぶ。

一方、蓋然性の高い事象の要因は主体の能力や気質に強く結びつくと考えられる。 アンコントローラブルな外的要因に左右されにくいということは、裏返せば内的な要素に依存している。 個人が主体であれば自分自身、チームが主体であればチーム内部において事象の発生を左右しうる要因、それは選択や意思決定、実行などの行為である。

あらゆる行為がもたらす事象は、行為者の能力や気質に大きく左右される。それらに依存しない方法を選んだとしても、その方法の選択自体がひとつの行為である。 蓋然性の高い事象の支配的要因となりうるこれらの要因を「能力・気質的要因」と呼ぶ。

このアスペクトを4象限に加えると次のようになる。

ここからいくつかの洞察が得られる。

第一は事象評価の主観性だ。すなわち、この2つの評価は絶対的なものではなく、評価する者の主観的評価である。 事象の好ましさを左右するのは、それを評価する者の目的・欲望の達成にどれだけ寄与するかという合目的性である。 つまり、同じ事象であっても目的・欲望が異なれば好ましさも当然変わる。

また、事象発生の蓋然性も同様に、評価者の能力・気質によって評価基準が異なる。 たとえば、サッカーの技術が乏しい人にとって蹴ったボールがゴールに入るかどうかは運頼みである。だが、練習を重ねたプレイヤーにとってはある程度狙えるものである。 「蹴ったボールがゴールに入る」という事象を支配する要因は、人によって状況的要因にも能力・気質的要因にもなりえる。

第二に、ふりかえりを通じた学習には2つの指向性がありえるということである。すなわち、「好ましい事象の蓋然性を高める」(水平方向の)指向性と、「蓋然性の高い事象の好ましさを高める」(垂直方向の)指向性。

そもそも学習とは、端的にいえば新たな能力の獲得や気質の変容である。つまり、ある事象がどれほど能力・気質的要因に支配されるか、ある事象の要因がどれほどコントローラブルであったかという評価の基準は、同じ人物であっても学習によって変化する。 先程のサッカーの例で言えば、最初は素人でも練習すれば、「蹴ったボールがゴールに入る」という事象は能力・気質的要因に変化する。

つまり、学習は能力・気質の変容によって、アンコントローラブルだった状況的要因をコントローラブルな要因として新たに捉え直すような評価基準の変化をもたらす。 そのように4象限を区切る基準が動くことにより、第2象限・第4象限が占める領域が拡大する。個々の事象にとっては、第1象限から第2象限、または第3象限から第4象限への移動が起こる。これが水平方向の指向性だ。

また、能力・気質的な要因とは状況の内部においてコントローラブルな行為である。 したがって、それらの行為を試行錯誤することで、好ましい事象を引き起こすように行動パターンを変容することができる。 このようにして第4象限から第2象限へ向かう学習の指向性が生まれる。

以上のように、ふりかえりを通じた学習には2つの指向性がありえる。 状況的要因に支配されるアンコントローラブルな事象をコントローラブルにしようとする学習(能力・気質の変容)と、試行錯誤によって行為がもたらす事象を好ましいものにしようとする学習(行動パターンの変容)だ。 この2つはどちらも、現状の事象評価と理想の事象とのギャップを埋めようとする意志がその原動力となる。したがって、学習を目的とするふりかえりにおいて、ある事象の支配的要因を見誤ることは学習を大きく阻害する

根本的な帰属の誤り

ところで、第3象限はもっとも避けたいものであると同時に、もっとも避けえないものでもある。 2つの学習の指向性はどちらも、事象の分布を第3象限から遠ざけることに寄与するが、ここで注意すべきは第1象限と第3象限のあいだに学習の指向性を持たせることはできない点だ。幸運も不運も予測できない偶然であり、試行錯誤による垂直方向の学習は不可能である。

単に幸運であった第1象限の事象を第3象限として評価してしまう、あるいは能力不足が要因であった第4象限の事象を単なる不運(第3象限)だと評価してしまうことは、徹底的に避けねばならない。 だが、人間は本能的にこの間違いを起こしやすい。それは『根本的な帰属の誤り』と呼ばれる認知バイアスで説明される。

『根本的な帰属の誤り』とは、ある結果に対応する原因を推測する際に影響するバイアスである。 他人の失敗に対して、人はその原因をその人の能力・気質的な要因に紐付ける傾向があり、状況的な要因を軽視する。しかし、自身の失敗については逆の見方をする傾向がある。 一方で、他人の成功に対してはその原因を状況的な要因だと評価するが、しかし自身の成功の原因は能力・気質的な要因に紐付ける傾向がある。 これは因果関係について「一番単純で直感的な結論を出す傾向」とも言える。

つまり、人間は根本的に状況的要因と能力・気質的要因の見極めを間違えやすい。 上述のとおり、そもそも事象の好ましさも蓋然性も主観的な評価である。 それに加えて認知バイアスまで影響するとなれば、ふりかえりを通じた学習を集団で成り立たせることは非常に困難であると言える。 だからこそ、組織やチームにおけるふりかえりの方法は今日まで論じられ続けているのだ。 ふりかえりのための数々の方法が考案されてきたことが、人間が本来的にふりかえりを苦手としていることの証左でもあり、それらの方法の本質的な効能は事象評価に関する人間の認知バイアスを矯正することにあると、そう考えてもそれほど不自然ではないだろう。

その一例として、これからKeep/Problem/Try、いわゆるKPTという代表的なふりかえりの方法が、どのような矯正効果を持ちうるのかを説明する。

KPTがもたらしうる矯正効果

KPTは組織やチームの反復的な活動の中で行われるふりかえりである。 KPTにおける時間的範囲はそのイテレーションの期間であり、空間的範囲はその集団の活動範囲である。 その範囲の中で、Keep(続けるべきこと)・Problem(問題であること)・Try(行いたい新しいこと)を書き出していく。 この3つのフレームを事象評価の観点から解釈しなおしてみよう。

Keepについて

Keepの定義は「続けるべきこと」である。「続ける」は動作動詞であり、対象となる何かしらの行為が存在することを示す。 Keepを書き出す上では3つの条件、『事象と行為の分別』『行為主体の内在』『結果再現性の評価』が求められる。

『事象と行為の分別』はKeepの定義から明らかである。 行為とそれがもたらした結果としての事象は分けて考えなければならない。

また、行為を継続するにはその行為主体の意志が必要だ。なぜなら、行為者の意志によらずそれが続くのであれば、それはもはや行為とはいえないからだ。 行為を続けるべきものとするならば、「誰が続けるか」という行為主体の特定は避けられない。 さらに、外部の何者かが実行する行為はアンコントローラブルであるため、行為主体がその集団の中にいなければならない。よって、『行為主体の内在』は必須条件となる。

そして、同じ行為を繰り返してもそれが同じ結果をもたらすとは限らない。 行為を継続することの意義は、その結果として好ましい事象が再現することにある。 よってKeepには『結果再現性の評価』が必要だ。 もし結果を再現するために行為の他に恵まれた状況を必要とするのなら、その事象の支配的要因は行為ではなく状況である。

これらの条件はKPTの参加者の前に3つの問いとして立ちあがる。

  1. 「そのKeepは行為であるか?」:行為でなければ継続できない
  2. 「その行為の主体はわれわれか?」:われわれの意志によって継続できなければならない
  3. 「その行為の結果は再現可能か?」:結果が再現しなければ行為を継続する意味がない

3つの問いは、成功的事象の要因についての安易な分析を許さず、状況的要因に目を向けさせるための認知的な矯正として機能する。

そもそも、ある行為の結果が好ましい事象であったなら、それを再現しようとする意志は自ずと生まれる。 ましてやそれが再現可能であるなら、ふりかえりなどなくても続けるだろう。 つまり、Keepに書かれる「続けるべきこと」自体は(矯正という視点から見れば)それほど重要ではない。 であれば、なぜKPTはKeepを書き出させるのか。それはKeepを書こうとして初めて目が向けられる「Keepに書けないこと」を取り出すためである。

Keepについて考えるとき、関心が向けられているのは好ましい事象である。 すでに述べたとおり、自身の成功は『根本的な帰属の誤り』によって能力・気質的な要因に紐付けられやすい。 だが、Keepというフレームは、それがどれだけアンコントローラブルな状況的要因に支配されていたかということに関心を向ける。 Keepが突きつける3つの問いのうちどれかひとつでもNoならば、その事象は第1象限に位置づけられ、偶然の賜物であったと評価されるからだ。

このように「Keepに書けないこと」が取り出されることによって、水平方向の学習が動機づけられる。 すなわち、今はまだ状況的要因に支配されている事象を、行為によって再現できるようになるための能力・気質を養う学習の原動力となる。

Problemについて

続いて Problem について触れよう。 以前書いた記事では、『問題は 「私」と「何か」の関係性の中で立ち現れる現象である』と述べた。 この洞察は KTPにおける Problem についても当てはまる。

つまり、ある事象を「問題視」するか否かというのは、まさしく事象の好ましさの評価である。 これは集団での振り返りにおいて重要な意味を持つ。 なぜなら、ある人にとって問題となる事象が、別の人にも同様に問題として見られるとは限らないからだ。

したがって、Problemというフレームが参加者に問うのは、その事象は「われわれの問題」になっているかという間主観的な評価基準の確認であり、事象の好ましさについての評価基準の共有にほかならない。 ある事象が集団の誰にとっても好ましくない「われわれの問題」であるためには、それが「われわれの目的」をどのように阻害してるのか説明できなければならない。そのためには、目的の共有が前提条件として求められる。

Tryについて

最後は Try だ。Tryがあることによって、Keep と Problem が意味あるものになる。

Keep と同様に、Problem にも『根本的な帰属の誤り』を矯正する効果がある。それは「この Problem から Try は生まれるか?」という問いによってだ。

定義から明らかだが、Try として書き出されることは Keep と同じく行為である。 したがって、ある Problem に対して Try が思いつくということは、その問題は状況的な要因だけに支配されているのではなく、行為によって介入する余地があることを示している。逆に言えば、まったく Try を生み出せない Problem だけが、真に状況的な要因による事象だと結論付けられる。

自身の失敗は、その原因を状況的な要因に紐付けやすい。 Problem から Try を考えるという作業は、好ましくない事象を第3象限の不運として安易に片付けるのではなく、第4象限として捉え直すチャンスを与えてくれる。 それは学習によって第2象限への移動ができる希望があることを意味する。

また、Keepは「Keepに書けないこと」を取り出すための作業であり、状況的要因による偶然性を克服する学習の動機づけとなりうると述べたが、それは言いかえれば「Keepに書けないこと」それ自体が Problem であるということであり、学習はそこから生まれた Try である。

このようにして、 Keep と Problem は Try によって第2象限に向けた学習の動機としての意味を与えられる。

ふりかえりへ臨む姿勢

以上のとおり、事象の評価における本能的な誤りを矯正するフレームワークとして捉えたKPTの本質は、次のようにまとめられる。

  • どのような事象が「われわれにとって」好ましいのかという価値基準を共有する機会であると同時に、
  • 好ましい事象のうち、行為により再現可能なものとそれ以外の分別であり、
  • 好ましくない事象のうち、行為により解決可能なものとそれ以外の分別であり、
  • われわれが取り組むべきは、再現可能ではない成功と、解決可能である失敗を、行為によって解決するという「改善する意志」(学習の指向性)の確認である

これはどのようにKPTを使うのが正しいかという話ではない。方法それ自体に正しい目的というものはない。この洞察は、ふりかえりという活動に対するわれわれの姿勢によって、同じ方法であっても新たな効果を見出す可能性が生まれるということを示すものである。

われわれの事象評価にはいつでも主観性と『根本的な帰属の誤り』という壁が立ちはだかっている。この認識があることで、ふりかえりの時間をただ漫然と過ごすのではなく、自らやチームのバイアスを矯正するトレーニングの時間だと考えることができるようになる。そうした姿勢で臨むふりかえりはイテレーションの中でもっとも重要な活動になるだろう。

ふりかえりがどのような意味を持つかは、ふりかえりに臨む者の姿勢次第であり、真に問われるのは「われわれはふりかえりにどのような意味を持たせるか」である。

参考文献

方法と目的

方法にはそれが考案者によって生み出された当初の目的がある。 しかしその方法が人びとの間で普及すると、当初の目的とは違う目的にも利用されはじめる。そしてこの状況は間違いであり悪であると評価されることがある。

ところで、方法の利用において正解と間違い、善と悪との評価を可能にするのはどのような根拠だろうか。 それはその方法を利用することが利用者とその利害関係者にとってどれだけ好ましい効果を生み出すかという結果への評価に他ならないだろう。 方法を当初の目的に沿って利用することが「正しい」とするならば、その方法は当初の目的のために利用することで最大の効果を生み出すということになる。

だが、効果の好ましさとは結果に対する評価であり、その評価を可能にする価値基準は利用者の目的ないしは欲望に根ざすものである。 つまり、異なる目的で利用された方法はそれぞれの価値基準で効果を評価されるのであり、効果の良し悪しは絶対的に測れるものではない。 方法がその当初の目的との間に高い適合性を見せるのは当然だが、「正しい目的」が最大の効果を生み出すという論理は、そもそもそれが誰にとっての効果かということを取りこぼしている。

ある者にとって最大の効果であっても、別の者にとって同様に評価されるとは限らない。 「正しい目的」という論理はその価値基準を正しいものとすることであり、すなわち客観的な「正しい認識」があるということを前提している。 そのように、当初の目的をその方法にとって最大の効果を生み出す条件であると考える、あるいは方法に「正しい目的」があると考える原理主義的な姿勢は、方法の可能性を不当に規定する。

方法の当初の目的についての考古学は、その方法がどのような目的に対してどの程度妥当であったかという前例を求める経験主義的な観点においては有益である。しかし、それ以外の目的に対して前例を超える効果(この比較こそが目的する者の評価なのだ)を生み出し得ることを否定することはできない。 方法の当初の目的が利用者の目的と異なっていたとしても、そのことは利用者がその方法から得られる価値の大小には関係しない。 方法はそれが利用される目的の数だけ、より大きくも小さくもなる価値の可能性を含んでいる。 優れた方法とはより多くの目的に試された方法、あるいは当初の目的からより遠く離れた目的にも試され得る方法ではないか。そのような方法はその価値にも広い可能性を有する。

因果関係に気をつけなければならない。ここまで述べたとおり、方法がもたらす効果はその目的によって評価されるものであるが、方法の実践に瑕疵がないにもかかわらず方法の効果が好ましいものでないとすれば、その原因は目的と方法の不適合に見出されるだろう。それはわれわれの目的を価値基準として方法の適合性を評価することだ。

しかし、方法を絶対視する者にはその逆のことが可能になる。つまり、方法を価値基準として目的の適合性を評価するのだ。「この方法がうまくいかないわけがない。もしうまくいかないのならば、それは目的が間違っているからだ」という次第だ。これを可能にするのが方法に「正しい目的」が存在するという錯誤である。 方法を絶対視するということは、その方法の考案者の価値基準を絶対視することである。 方法を当初の目的以外に利用することを間違いとみなす教条主義的、原理主義的な姿勢は、方法が目的を評価するという価値の顛倒を招くだろう。

目的する者は、目的によって方法を評価する。 われわれの目的が方法のための目的となってはならない。