余白

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問題はどこにもない

QuestionではなくProblemとしての「問題」についてのlacolacoの考え方

  • 「事実として問題であること」はどこにも存在しない
  • まず、「事実」なるものの存在を否定する
    • まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ (ニーチェ『権力への意志』)

    • 当然、「事実として問題であること」もない
    • 「まさしく問題なるものはなく、あるのはただ嫌悪のみ 」
  • 「これは問題だ」と感じるとき
    • ここで疑いようのない確かなことは、 「私」に「これは問題だ」と感じさせる「何か」がある ということ
    • 問題感・課題感
      • 恐れ、憂い、抵抗、総じて不快なものに対する嫌悪の反応である
    • 問題とは、 「何か」に対する「私」の捉え方 の名称である
      • 「問題視する」とは言い得て妙
      • 「問題として見ている」のは「私」自身
  • 問題の解明
    • スタート地点は: 「私」に「これは問題だ」と感じさせる「何か」がある
    • その「何か」が備える何らかの属性が、「私」の中の問題意識を刺激している
    • その条件を追求する(現象学的還元)
    • あらゆる解釈・認識は自身の欲望に相関する(欲望相関性)
      • 達成したい目標があるから、それを阻害する要素が「問題になる」
      • 実現したい状態があるから、それに不都合な要素が「問題になる」
    • まずはその欲望を言語化するところからはじめる
  • 問題意識の共有
    • 問題は 「私」と「何か」の関係性の中で立ち現れる現象である
    • これを「われわれ」との関係性にするためには、問題意識を刺激する条件を共有する必要がある
    • あらゆる解釈・認識は自身の欲望に相関する
    • 「われわれ」の欲望を共有することが、問題意識を共有するための前提になる
      • 「われわれは何を実現したいんだっけ?」
      • つまりインセプションデッキの1枚目

決める場と考える仲間

場と人間の関係性、そしてチームをつくるということについて。

「決める場」

  • ある事柄に関して、決定権をもっている「場」を指す
  • 多数決、あるいは議長による判断、なんらかのルールにそって合意形成をする場

「考える仲間」

  • ある事柄について同じ目的のためにともに考えてくれる他者を指す

「決める場」の思考

  • 「決める場」の思考は 損得勘定の思考
    • 事柄の必要性、自身への影響
  • 利害関係者としての思考

「考える仲間」の思考

  • 「考える仲間」の思考は 磨き上げの思考
    • 事柄の可能性、目的に対する効果、「よりよさ」の追求
  • 当事者としての思考

話している相手は「考える仲間」か、それとも「決める場」の利害関係者か

  • 利害関係者に対して「よりよくする」ことを一緒に考えてもらおうと思ってもうまくいかない
    • 自身への影響が現実的に想像できるようになるまで賛成も反対も起きない
  • 「決める場」が生む振る舞い
    • 「考える仲間」が少ない場では、事柄そのものの「よりよさ」へ関心が向けられない
    • 事柄の磨き上げではなく、場への働きかけによって決定を誘導できてしまう
    • ほかの人にどう反応してほしいかによって言葉や行動を選ぶ

「チームをつくる」とはどういうことか

  • 単なる個人の集団ではない「チームをつくる」ということ
    • チームとは、全員が「考える仲間」であること
  • つまり 「よりよさ」を追求しつづけるための構造をつくる ということ

下書き:

scrapbox.io

映画「RBG 最強の85才」を観た

映画公開時から気になっていたが観に行けてなくて、ずっと観たかった映画「RBG 最強の85才」をようやくNetflixで観た。

https://www.netflix.com/jp/title/80240086

www.youtube.com

1933年ニューヨーク、ブルックリンで生まれたルース・ベイダー・ギンズバーグ。弁護士時代から一貫して女性やマイノリティの権利発展に努めてきた彼女は、1993年にビル・クリントン大統領に女性として史上2人目となる最高裁判事に指名される。以降も男子大学の女性排除、男女の賃金差別、投票法の撤廃などに、弁護士時代と変わらぬ視点から、法の下の平等の実現に向けて果敢に切り込んでゆく。若者を中心に絶大な支持を得る「RBG」はいかにして誕生したのか?彼女を良く知る家族、友人、同僚が母として、友人として、働く女性としてのルースの知られざる素顔を語り、彼女を支え続けた夫、マーティンとの愛溢れるエピソードも描かれる、全米大ヒットのドキュメンタリー。

僕は実話を題材にしたドキュメンタリーやドラマが大好きなので、この映画もそれで気になっていたが忘れていた。去年の9月にギンズバーグ判事が亡くなったニュースを聞いたときに「そういえば」とこの映画のことを思い出し、Netflixで配信されてすぐマイリストに追加していたがようやく観ることができた。

www.bbc.com

内容は期待通りで、とてもおもしろかった。ドキュメンタリー好きにはぜひおすすめしたい。「シカゴ7裁判」もそうだが、アメリカは国自体の歴史が新しいからこういう国の歴史的瞬間にまつわる実話がせいぜい数十年前とかだったりして、鮮度が高いのも好きなポイントだ。

youtu.be

話が長いのではなく、聞く時間が短い

scrapbox.io

  • 「話が長い」のが悩みという人へ
  • 長くなるまで話してしまうのは、「自分が話したい > 相手から聞きたい」だから
  • 有限の時間で、相手の話をもっと聞きたいと思ったら、自分が話す時間は短くならざるを得ない
  • 相手に関心を向け、「もっと聞きたい」と心から欲する
    • 「自分が何を言いたいか」ではなく「自分は何を聞きたいか」を常に考える
    • 「自分が何を言いそこねたか」ではなく「自分は何を聞きそこねたか」を常に考える
  • その先のファシリテーションへの道
    • 自他の枠を脱して、「場」について考える
    • 「誰が何を聞けていないか」を常に考える
    • 「誰が何を言えていないか」を常に考える
  • これは技術的な課題ではない

情報ではなく経験をアウトプットすること

調べれば大抵の情報は誰でも手に入る今日このごろ。特に技術的な情報はオープンソースで一次情報へのアクセスは容易になった。

それと同時に繰り返し言われるアウトプットの重要性。 しかし、ブログやLTなどでアウトプットしても、「もっと質のいい情報があるのに自分がアウトプットする必要があるのか」「逆にノイズになるだけじゃないか」というような考えになってしまう人もいるのではないか。

そんな架空の声にお応えして、それでもなおあえて、一次情報ではない「あなたのアウトプット」の重要性を伝えてみようと思う。

実際にやる人は多くない

定量的なデータがあるわけではないが、直感的に共感してもらえるだろう。 ある技術や手法が話題になったとして、それを情報として知っている人はこの時代いくらでもいる。 だが、それを実際にその手でやったことがあるというだけでかなり群衆からは抜きん出た経験を持つことになる。 ましてやそれをやり続けているともなればかなり独自性の高い経験になる。

かけた時間に比例してその経験は独自性を増す

少しサンプルコードで触ってみただけではもちろん同じ経験をした「やってみた」の中に埋もれてしまうだろう。 だが例えば趣味で実際に、アプリケーションをひとつ作ってみるとか、職場のプロジェクトに導入してみたとか、いろいろなコンテキストと組み合わせることで経験にあなただけの色が付いていく。 そして時間をかけ、たくさん経験するほど、その中にあなただけの部分が生まれやすくなる。継続は力になる。

経験をアウトプットできるのは自分だけ

情報はそれを知っていれば基本的には誰でも同じことを(少しずつ歪曲・欠損しながら)発信できてしまう。だからより発信源に近い一次情報のほうが好まれるのは当然だ。

だがあなたの経験はあなたが一次情報源だ。誰も同じ経験はできないし、その経験自体を否定することもできない。経験に正しいも間違っているもない。あるのは嘘か本当かだけだ。

だから、もし冒頭で書いたようなアウトプットの悩みを持っている人がいたらぜひ情報ではなく経験をアウトプットしてみてほしいと伝えたい。 実際に何かをやったということは思っている以上に貴重なことなのだ。

lacolaco.hatenablog.com